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航空機事業に進出するトヨタ 豊田家の不文律「一人一業」神話の呪縛(1) | 東京レポート
特別取材
2008年3月12日 13:30

 トヨタ自動車が航空機事業へ進出--。新聞各紙は3月6日、三菱重工業が進める国産小型ジェット旅客機の開発計画に、トヨタ自動車が資本参加を検討していると報じた。官民一体で進めてきた同計画は巨額な開発費負担が課題だったが、豊富な資金力をもつトヨタの参画で「日の丸旅客機」の事業化が大きく前進するという。

 このニュースをどう読むか。ひとつの読み方は、豊田家の御曹司への大政奉還に備え、豊田家の家訓である「一人一業」の柱に航空機事業を据えたということだろう。トヨタにとって、「一人一業」の呪縛はそれほど強い。

「一人一業」の家訓           

 Xデーは間近か。業界でこうささやかれているのが、トヨタ自動車のトップ人事。渡辺捷昭社長(66)から、豊田家の御曹司・豊田章男副社長(51)への大政奉還があるか、という点だ。「目が黒いうちに息子を社長にしたい」との思いを募らせている豊田章一郎名誉会長はすでに83歳。

 豊田章男氏は、国語の教科書などで知られる自動織機の「発明王」豊田佐吉氏のひ孫で、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏の孫。慶応大学法学部を卒業後、トヨタに入社。01年取締役、02年常務、03年専務、05年副社長と階段を駆け上がってきた。豊田家悲願の大政奉還を目前にしている。

 豊田家のもうひとつの課題は「一人一業」。豊田一族を束ねる本家には、「豊田家の盟主は、代々新しい事業をつくること」という家訓がある。業祖、豊田佐吉氏が「一人一業」を説いて、代々の盟主は新事業を起業した。豊田本家四代目の章男氏も「一人一業」の課題を背負っている。

 「世界のTOYOTA」の歴史は、豊田佐吉翁から始まる。佐吉氏は明治維新の1年前の1867年に、静岡県敷地郡吉津村(現在の湖西市)で、大工の息子に生まれた。小さい頃から発明好きで、“だぼらの佐吉”と呼ばれ変人扱いされてきた佐吉氏が、自動織機を発明したのが1896年、32歳のとき。一大紡織ブームとなるや、佐吉氏は「発明王」と評価された。佐吉氏が設立したのが豊田自動織布工場、現在の豊田自動織機である。

二代目は自動車を起業            

 「一人一業」を説く佐吉氏は、息子の喜一郎氏に次代の事業として国産自動車の製造を勧めた。喜一郎氏は、豊田織機内に自動車部を設置。だが、無難なスタートとはいえなかった。豊田家の家督相続人で織機の社長であった利三郎氏(佐吉氏と後妻の間に生まれた長女・愛子氏の婿養子)が、猛反対する。

 「三井、三菱といった大財閥ですら手におえない自動車を、田舎企業の豊田にできるわけがない。自動車生産に乗り出したら自動織機が潰れてしまう」

 これが反対理由。当時、国産自動車はまだ山のものとも海のものとも知れない新興産業。養子である利三郎氏が家長として、危険な冒険をよしとしなかったのは無理はなかった。トヨタの歴史に暗い影を落とした家長と本家嫡男の対立である。

 1933年、利三郎氏と喜一郎氏の反目が頂点に達する。利三郎氏は喜一郎氏を「禁治産者にする」とまでいい、一族は自動車生産について緊急の家族会議を開いた。このとき喜一郎氏に味方したのが佐吉氏が遺した「一人一業」の家訓。喜一郎氏の異母妹・愛子氏は夫の利三郎氏に初めての抵抗を見せ、「自動車は父の夢であり、お兄さまの生き甲斐ですから」と賛成にまわったのだ。こうして誕生したのがトヨタ自動車工業である。

 しかし、トヨタは戦後の混乱期に、大争議に見舞われ、倒産寸前に追い込まれた。銀行からの協調融資の代わりに喜一郎氏は社長を辞任。トヨタの栄光を目にすることなく、1952年に脳出血で他界。57歳だった。


つづく

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