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今、歴史から元気をもらおう

【連載】 今、歴史から元気をもらおう(32)~岩崎弥太郎とトーマス・グラバー
今、歴史から元気をもらおう
2010年2月 2日 08:00

 岩崎弥太郎は、土佐藩の下士の家に生まれた。時が明治維新という波乱の時代でなかったら、一介の地下浪人だった弥太郎が天下の三菱財閥を創りあげることはなかったかもしれない。
 だが、時代は青雲の志に燃える弥太郎に大きな扉を開けて待っていた。幼時からその英才ぶりを発揮した弥太郎は、25歳になったとき「小林塾」の師・吉田東洋の推挙により初めて藩職につくことができた。早速、弥太郎には当時開港したばかりの長崎への出張が命じられた。現地での海外情報の蒐集が彼の任務だった。歓喜した弥太郎は意気揚々と、開港したばかりの新天地・長崎に赴いた。

 同じ年、上海の英国商社『ジャーディン・マセソン』に勤務していたトーマス・グラバーが、長崎にやってきた。いったんは個人としてグラバー商会の看板を上げるが、2年後、ジ社の長崎代理人・マッケンジーが中国に転出した後は、同社の代理人に抜擢される。ここから、グラバーの貿易商としての顕著な活動が始まる。
 彼は日本の生糸、茶、陶漆器などを輸出し、木綿、砂糖、武器、弾薬などを輸入した。とくに利益が大きかったのは、諸藩が欲した軍需物資だった。こうして、グラバーは大政商への道を確実に歩んでいく。

 一方の弥太郎は、長崎に着いた途端に途方にくれることになった。それまで自信をもって学んできた漢学は、西洋の情報を入手するためには全く無力だったからである。彼は蘭学医や中国人を妓楼に招いて、何とか対外事情を聞きだそうとするが一向に要領をえない。遊びが過ぎてついに官費を使い果たしてしまった弥太郎は翌年、長崎から無断で帰国して免職となった。
 この時期、商売に乗り出したグラバーと花町に入り浸っていた弥太郎は、同じ長崎の空気を吸っていたことになるが、2人がめぐり会うことはなかった

 1865(慶応2)年、土佐藩は殖産興業や富国強兵を目的とする「開成館」を新設した。開成には「事物の理を開き、事業を成就させる」との意が込められていて、身分、家柄を問わず才能ある人材が登用された。
 1870(明治3)年、土佐藩は開成館の長崎出張所である土佐商会を設立し、弥太郎に土佐藩所有の汽船3隻を与えて海運業を始めさせた。「始めさせた」というと聞こえはいいが、その実は、維持費用に困った藩が持ち船を弥太郎に押し付けたのであった。そのうえ、土佐藩が軍備のためにした借金まで背負わせてしまった。

 遠洋航海の経験も海運業の知識もなかった弥太郎は、グラバーの紹介で英国商船隊の中でも名船長の誉れが高かったキャプテン(ウイリアム)・ウォーカーに会って事情を説明し、自分の秘密相談役となってこの事業への協力を依頼した。ウォーカーは快く協力を約した。弥太郎が、後に海運業を発展させたノウハウの基礎はこのとき確立されたといってよい。
 弥太郎は、1871(明治4)年の廃藩置県に際して商人の道を選択した。このとき選定した三菱のマークは、土佐藩主山内家の三つ柏に、岩崎家の家紋三階菱の菱を並べたものである。やがて世界を席巻することになるスリーダイヤマークは、こうして生まれた。

 グラバー商会は、明治に入って西南部の有力諸藩への掛売りの回収が滞り、加えて佐賀藩と共同経営していた高島炭鉱の経営が行き詰まったことで、1870(明治3)年、破産宣告を申請するに至った。貿易商から企業家への転進をはかったグラバーだったが、炭鉱経営は労務者の使い方ひとつにかかっている。グラバーの経営破綻の原因は、労務管理の失敗である。このとき救いの手を差し伸べたのが、後に三菱商会となる九十九商会を経営していた岩崎弥太郎だった。
 弥太郎が経営に乗り出すや、青い目の外国人の言うことは聞かなかった荒くれ鉱夫たちも、豪腕ながら酸いも甘いもかみ分けた弥太郎の差配には従った。炭鉱経営はみるみるうちに黒字に転換した。弥太郎は、グラバーを三菱グループの渉外係顧問として遇した。

 グラバーは弥太郎の友情を多として、生涯を三菱のために尽くした。事業意欲旺盛な弥太郎は、日本に本格的なビール醸造事業を起ちあげたいと考えていた。日本で初めてのビール醸造所は、アメリカ人ウイリアム・コープがつくったスプリング・バーレー・ブルワリーだった。明治17年末のことである。このブルワリーが経営不振に陥っていることを聞きおよんだ弥太郎は、その買収をグラバーに相談した。
 しかし、弥太郎の持ち時間はもうなくなりかけていた。翌年の1月、胃がんの診断を受けた弥太郎は、早くも2月7日、帰らぬ人となった。享年50歳。あまりにも若すぎる死だった。

 遺志を戴したグラバーは、スプリング・バーレー・ブルワリーの事業を買収するためにジャパン・ブルワリーの設立を目論んだ。自分自身は破産状態で出資できなかったため、親友のウイリアム・ウォーカーを全体の20%を有する筆頭株主に据えた。また、岩崎弥之助(弥太郎の実弟)を大株主に迎えたほか、後藤象次郎や渋沢栄一など弥太郎ゆかりの人々にも出資を依頼した。1885(明治18)年、株式会社が設立されると、グラバー自身は重役に就任し、ジャパン・ブルワリーの経営に積極的に参画した。1888(明治21)年には、国産初のドイツ風ラガービールが醸成され「麒麟ビール」の名で明治屋から売り出された。

 ジャパン・ブルワリーは、後に「麒麟麦酒」と改名される。三菱グループの宴会は「キリンビール」に限るという伝説は今に残っている。明治20年代になって、東京にも洋食屋が増えると、麦酒の普及が急速に加速していく。
 1899(明治32)年には、グラバーは横浜と新橋の駅にビヤホールを造り、生ビールを売り出した。やがてビールは一般家庭まで浸透していった。こうしたなか、グラバー自身もよくビールをたしなんだに違いない。彼の脳裏には、ついに「麒麟ビール」を飲むことがなかった弥太郎への想いが去来したことであろう。ほろ苦いなかにもさわやかなビールの風味に似た友情が偲ばれる。
 明治44年12月16日、グラバーは東京・麻布富士見町の自宅で、73歳の生涯を閉じた。

小宮 徹/公認会計士
(株)オリオン会計社 http://www.orionnet.jp/

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