<古代ロマンが息づき文化経済の玄関口を支えた街道>
唐津街道は、江戸時代に整備された街道の1つ。有名な長崎街道と並行するように、海岸沿いを若松宿から響灘、玄界灘に沿って筑前博多を経由して肥前唐津の唐津城まで続いていた街道である(唐津街道の出発地は、大里、小倉などの諸説があるがここでは、若松宿から唐津城までとする)。
この街道の歴史は古く、2世紀後半から3世紀前半頃に倭の国を治めた謎の女王・卑弥呼が登場する魏志倭人伝に邪馬台国への玄関口であった伊都国は前原宿周辺であったのでないかと言われる。
また、大陸文化の導入に遣隋使、遣唐使の使節団を組織。唐津街道を経由し、当時の大陸への玄関口となる那ノ津(博多港)などから出航して大陸へ渡った経緯がある。2度にわたる蒙古襲来に備えた防塁跡地が点在するほか、秀吉の朝鮮出兵時には作戦拠点であった名護屋城まで、この唐津街道が多く利用されたことだろう。
その後、徳川家康が政権を握ると東海道などの五街道をはじめ全国の街道を整備。福岡藩も街道を筑前六筋、二十七宿を整備したとされる。以後、唐津街道は主に福岡藩、唐津藩が参勤交代の大名道として活用してきた。明治維新を経て長崎出島が鎖国から一部開放され、西洋文化窓口として長崎街道が注目されたが、それは江戸時代後期からで、この唐津街道は、それよりはるかに古い歴史がある由緒ある街道でもある。
<住民も大感謝生まれ変わった街道へ>
歴史ある街道であっても、現代においては一般道路として活用しなければならない。そのため、もちろん唐津街道の道路の下には水道管などが埋設されているのである。
福岡市の水道管敷設の総延長は約3,900kmあり、埋設した水道管は次第に老朽化していく運命にある。唐津街道の直下に埋設されている水道管も例に漏れず老朽化していることに加え、2005年には福岡県西方沖地震の発生によって水道管の耐震化が図られ、唐津街道の姪浜地区の水道管取り替え工事が開始された。工事は12年10月から行なわれたが、狭い道路がゆえに管工事も苦労を余儀なくされたようだ。
だが、工事を手がけた業者は「一番大変だったのは、本管工事ではなく、インターロッキング舗装作業でした」と言う。
インターロッキング舗装とは「独特の幾何形状に製造された舗装用コンクリートブロックを、路盤またはアスファルト舗装基盤上に敷設し、ブロックの種類、形状、寸法、敷設パタ-ン、色調および表面テクスチャーを選ぶことにより、耐久性、安全性、快適性および景観性に優れた舗装」(日本道路建設業協会より)というもの。
無気質なアスファルトより見かけが良いため、景観を重視したい地域にはこの方法が好まれるようだ。
このインターロッキング自体が特殊であり、保有しているのは全国で2、3カ所しかなく、そのなかの鹿児島の業者から調達するなどの苦労があったという。ともあれ、期限から2カ月が経過したものの完成へと漕ぎ着けた。工事は手間と労力がかなりかかったようで、「収支は赤字でした」と、手がけた業者にとっては大変な苦労だったようだ。
しかしその一方で、住民は大感激したという。街道内のみそ製造業者の販売員が、「工事は長かったけど、その分大変綺麗な道になりました。ありがとうございました」と工事業者に改めてお礼を言っている姿が印象的だった。
| (後) ≫
※記事へのご意見はこちら