40都道府県へ拡大し、掲載企業では5,000社を突破した「日本の社長.tv」を運営する(株)ディーノシステム。その躍進の影で、若き経営者・中島一明社長に2度の大難が訪れていた。今年に入り、頻繁に流れていた同社の信用不安説だが、その真相について中島氏自身を直撃した。本シリーズでは、「これからが第2創業です」という中島氏に創業時から、同社に訪れた困難をいかに乗り切ったかについて語ってもらう。起業の原点に立ち返り、並々ならぬ困難を乗り越えて得られたのは「100億円分の経験」だ。
――今回は、『中島社長奮闘記』ということで起業から現在までをお聞かせ下さい。
中島一明氏(以下、敬称略) 私は、学歴では中卒になります。福岡の春日高校に入学しましたが、1年生の1学期で中退してしまいました。当時、ビジネス書や哲学書を読んでいて、「将来起業家になりたい」と思い、高校をやめて土木会社に就職しました。2年くらい勤めてお金を貯めて、17歳頃からは飛び込みの営業をやりました。当時、ADSLなどが流行っており、電話営業もやりました。派遣にも登録し、ステージの設営とかもやりましたね。プライベートでは、キックボクシングをやったり、バイクで九州一周したり、ダイビングのライセンスをとったりと、好きなことをやって過ごしていたと思います。
そろそろ自分で起業しようと思ったのは19歳の頃でした。私の親はただのサラリーマンで、親戚一同にも経営者はいません。継ぐものもなければ、家は中流でお金もない。何をやっていいかわからないので、タウンページを開いては業種をみながら、何しようかなと考えていました。
その頃、読んだ本の付録に、ソフトバンクの孫正義社長が28歳くらいの若かかりし頃に、どこかでなされた講演の録音CDがありました。それを聞いていると、アメリカに留学していた時代、1日1個の特許のアイデアを、200か250個になるまで考え続けたと。そのなかの1個が自動翻訳機能のプログラムですね。
孫社長のようなすごい方でも、特許のアイデアを200も考えて1個しか使えないということは、やっぱりアイデアっていうのは200くらい考えないとダメなんだろうなと、素人なりに思ってですね。じゃあ、私は特許よりも大変なことをやろうということで、ビジネスプランを200案つくることにしました。それをやるために19歳のとき、半年ちょっとかけて1人で世界一周の旅をしてきたんですね。東南アジア、中近東、ヨーロッパ、アメリカなど1人で30カ国くらい回って、何回か死にかけましたけども・・・。
――まるで、H.I.S.の澤田さんみたいですね。
中島 まあ、澤田会長の場合は、それがそのまま仕事になっているからいいとして、私の場合は道楽みたいなものですよ。しかし、世界中をまわったのは良い経験でした。ヒマラヤ周辺で、ガイド代をケチって1人でトレッキングして遭難しかけたり、カンボジアでは、地雷で足をなくした子どもたちの施設でボランティアをしたり、スペインのバルセロナでは、現金からパスポート、カードまですべて盗まれたり・・・。
そのなかで1日1枚、ビジネスプランをつくりました。事業内容、時代背景、顧客のメリット、立ち上げに必要な資金、予想される問題などを1日1枚新しく書いて埋めるということを日課でやっていました。遭難しかけた時も、ろうそくの明かりで書いて。ちょうど200日ぐらいのたびで、200枚ビジネスプランができあがり、20歳頃に帰国しました。
それから、中学校の同級生とかに声をかけて、1人はミクシィで知り合ったエンジニア、当時、私は21歳、同級生も21歳、もう1人が26歳、この3人で『ディーノシステム』を設立しました。
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