――今年(2012年)は、現存する日本最古の歴史書である『古事記』が完成した和銅5年(712)から1300年にあたります。「古事記」の編纂開始から完成に至る時代、「日本」は東アジア最大の国家であった唐の制度を取り入れ、国家機構の基本を定めた律令を整備します。大宝元年(701)の大宝律令の完成は広く知られるところです。律令制にもとづく中央集権国家の建設が進められ、都は飛鳥京から藤原京、そして平城京へと遷っていきます。それまでの倭国を改め、「日本国」という国号を中国王朝に対して初めて正式に名乗り、認められたのも大宝元年の遣唐使だといわれています。――引用終わり
もともと「倭国」と名乗っていた国が、この時期(701年頃)その国号を「日本国」と改めたのだと、橿考研は述べている。その根拠は「旧唐書」の次の記述だと思われる。
「倭国自らその名の雅{みやび}ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
これは、日本からの使者が、(当時則天武后により一時その名称を「周」と変えていた)唐王朝に対して述べたことを、伝聞として懐疑的に記述しているものだ。「旧唐書」には、「倭国条」と「日本国条」がある。「倭国」と「日本国」は唐から見れば別の国だったのだ。
「日本は倭の別種」、「日本旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」 これも「旧唐書」の記述だ。つまり、中国王朝との関係において、列島を代表する王権が「倭国」から「日本国」に替わったという事を意味している。しかも、「旧唐書」に続く「新唐書」では、倭国がなくなり、日本国だけが記述されている。
それまで列島の中心勢力の事を中国の歴代王朝が表現する際、「倭」「倭人」「倭国」としていたのに、「旧唐書」に初めて「日本」が出現し、その小国日本が倭の地を併せてしまったというではないか。「旧唐書」を引継ぎその後に編纂された「新唐書」では、とうとう「倭国条」が姿を消し、「日本国条」のみになってしまったのだ。
このシリーズの初めに、「博多」との表現が古代には湾岸一帯の広域を表していたことに触れた。それが、黒田による福岡城下建設を期に、「博多」という特定地域が誕生し、「博多」が狭い商人町を表す言葉になったのだ。それが、江戸、明治、大正と学者の古代の博多鴻臚館の立地判断を惑わせてしまった。
「倭」の表現も注意深く観察しないと、とんでもない誤解のもとになりかねない。添付した写真は、2010年3月に、福岡県が主催して開催されたシンポジウムの末尾に掲載された「魏志倭人伝」の写しである。この文書は3世紀ごろの列島の事を記録した文書だが、よく見てみるだけでわかる当然の事なのだが、もちろん日本は出てこない。しかも、表題は「倭国伝」でなく「倭人伝」。つまり、まだ「倭国」すらなかったのだ。
(つづく)
【溝口 眞路】
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