2024年04月20日( 土 )

金正男殺害!悪魔が来たりて笛を吹く~デマ情報が韓国大統領選挙をも左右する

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 クアラルンプールで、朝鮮半島を揺るがす殺人事件が起きた。金正日(キム・ジョンイル)・前総書記の長男、金正男(キム・ジョンナム)氏の殺害事件である。

 これは、2つの点で重要である。1つは、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)体制が、越えてはならない「兄殺害」という河を越えて、朝鮮史に伝統的な「残虐な帝王」として登場したということだ。もう1つは、近く予定される大統領選挙をめぐって、韓国内の「左右対立」を未曾有な程度に激化させたということだ。
 筆者は、朴槿恵(パク・クネ)大統領の醜聞が発覚して以来、その背景には北朝鮮によるテロリズムの影があり、「悪魔が来たりて笛を吹く」というおぞましい観点を強調して来た。韓国内では「追いつめられたパク・クネ政権が指示して、金正男を殺害させた」というアングラ情報が流れ始めた。
 1987年の「韓国民主化」以来30年目というのに、この半島国家では「政治的殺人」と「謀略論」が絶えない。

(文中、一部敬称略)

 殺害の犯行グループの背後関係を明確にするのは、なかなか困難なようだ。

 上海発の聯合ニュースによると、マレーシアの捜査当局は殺害に関わった6人が「特定国の情報機関に所属する工作員ではなく、殺害を請け負った暗殺団(請負いテロリスト集団)である」との見方を、暫定的に下したようだ。これは、殺害の直接実行犯である女2人の行動から見ても、合点がゆく。北朝鮮の工作員であれば、逮捕直前に自殺行動に出るはずからだ。大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)らがとった行動(青酸カリを飲み込んだ)を想起すれば、理解ができるだろう。

 したがって、「金正男殺害=北朝鮮による犯行」説を立証するには、時間がかかる。そこに韓国社会に特有の「デマ情報」が信憑性を持って語られる言語空間が生まれる。ここがポイントだ。

 韓国のインターネット・メディア「タンジ日報」など複数の掲示板に、「正男氏殺害は韓国の保守勢力が主導したショーだ」いう書き込みが掲載された。「パク大統領の弾劾審判を控えて、韓国政府が苦し紛れにやった」という解説付きである。

 これは実は、韓国民であれば誰でも一瞬、脳裏をよぎる想定でもある。それほど韓国民の伝統的な政治不信は強い。いわば「韓国病」の1つだ。韓国では金賢姫による大韓航空機爆破事件も、当時の政権が与党を有利にしようとして仕組んだ、という流言が根強く存在するのだ。

 さすがに、これらのデマ情報を本気で信じる国民は少ないが、重要なのは、これは「南北情報戦」の一環だという厳粛な事実だ。

 保守紙「朝鮮日報」は、さっそくこのネット情報を取り上げて批判した。さらに次期大統領選挙で有力な野党候補者の言動を批判して、社説では、「それでも『親北』を続けますか」とする論調を張ったのである。まことに政治的に露骨な報道展開だ。

 最大野党「ともに民主党」の文在寅(ムン・ジェイン)代表は、自らが大統領になれば「(北朝鮮との共同事業である)開城工業団地や金剛山観光を直ちに再開する」と言明して来た。文氏自身は、金正男殺害について「非常に野蛮なことだ」「北朝鮮は正常な国ではない」とコメントしているが、その「非正常国家」との融和関係の復活を志向している人物こそが、文代表そのものである。この政治的ジレンマが、今回の殺害事件で改めてクローズアップされることになった。南北朝鮮は、今も「戦争状態」が継続していることを、隣国民の我々は忘れてはならない。

 韓国左派の苦境は、右派新聞「朝鮮日報」が大々的に事件を書き立てているのとは対照的に、左派新聞「ハンギョレ」の関連記事が少ないことからも、明瞭すぎるほどに表出している。

 私が1980年代に韓国現代史を学び始めたとき、ひどく驚いたのは、「韓国の戦後史は暗殺の連続史である」という史実だ。


 「光復期」の最大の暗殺は、上海臨時政府の首席だった金九の暗殺だ。李承晩(イ・スンマン)時代の到来を明確にした。1970年代には、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領夫人、そして朴正煕自身の2人が北朝鮮の指示を受けた在日韓国人や、大統領の腹心によって暗殺された。夫妻の長女(パク・クネ)の「心の空白」に侵入したのが、今回の醜聞の父親であったことは、過去にすでに指摘した。

 私が韓国現代史に伝統的な「テロリズムの系譜」を指摘して、「悪魔が来たりて笛を吹く」と述べたのは、この観点があったからだ。その「テロリズムの悪魔」が、さらに跳梁を続けているのである。

 北朝鮮においては、この悪しき伝統がさらに明白だった。

 金日成(キム・イルソン)は1950-60年代に南労党派(南朝鮮労働党の流れを汲むグループ)や、延安派(中国・延安を拠点に活動していたグループ)、ソ連派(旧ソ連の国籍を持つグループ)などの政敵はもちろん、自らの親衛隊でもあった甲山派(戦前から北朝鮮で活動していたグループ)に至るまで、かつての同志を次々と処刑し、彼らの血の上に自らの独裁体制を築き上げていった。
 金正日は、継母の金聖愛(キム・ソンエ)と腹違いの弟である金平一(キム・ピョンイル)を権力の座から引きずり下ろし、叔父の金英柱(キム・ヨンジュ)を地方に追放した。

 金正日の最初の妻とされる成恵琳(ソン・ヘリム)の甥の李韓永(イ・ハニョン)は、82年に韓国に亡命したが、97年に北朝鮮工作員により拳銃で殺害された。この成恵琳氏の長男が、今回殺害された金正男氏だ。そして「現代の暴君」である金正恩は、2013年12月に叔母の夫である張成沢(チャン・ソンテク)元国防副委員長を大型の機関銃で殺害した。これらが北朝鮮権力闘争史の核心だ。

 朴槿恵大統領に対する弾劾審判の宣告は、李貞美(イ・ジョンミ)・憲法裁判所長権限代行が退任する3月13日以前になる可能性が高まっている。
 2月16日に開かれた弾劾審判14次弁論で、李権限代行は「24日に弁論を終結する予定。双方の代理人は23日までに総合準備書面を提出し、24日の弁論期日に最終弁論ができるよう準備してほしい」と注文したからだ。

 韓国の事態は急激に動いている。サムスン電子の事実上のトップである李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が17日、朴槿恵大統領と崔順実賄賂を渡した容疑で逮捕された。これは検察当局による法的テロリズムだ。

 大統領弾劾審判の結論が、どうなるか、予断しがたい状況にある。保守派による猛烈な巻き返しが始まっているからだ。
 韓国司法判断は、国民世論によって左右されてきた。その国民世論を動かすのが、朝鮮テロリズムの伝統なのだ。隣国民としては、それをしっかりと透視して、日本と中国の狭間にある半島国家の動向を見極めねばならない。

<プロフィール>
shimokawa下川 正晴(しもかわ・まさはる)
1949年鹿児島県生まれ。毎日新聞ソウル、バンコク支局長、論説委員、韓国外国語大学客員教授、大分県立芸術文化短期大学教授(マスメディア論、現代韓国論)を歴任。国民大学、檀国大学(ソウル)特別研究員。日本記者クラブ会員。
メールアドレス:simokawa@cba.att.ne.jp

 

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