2024年04月26日( 金 )

非戦国家から遠くはなれて 73年目の終戦記念日によせて

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 「どうしても自衛隊を憲法に書き込みたいなら、災害救助隊ということにすればいいじゃない。それで世界中の自然災害を助けに行くのよ」。
 1948年生まれの、筆者の母の言葉である。いわゆる団塊の世代真っただ中にあたる母のような意見、あえていえば無邪気な意見を持っている方は、この世代を中心に多くいるのではないか。
 「軍隊はいらない、戦争はしないという決断を下し、それを実行に移しているコスタリカという国は本当に素晴らしいと思いました。それに引き換え、今の日本の総理大臣は戦争をやりたがっている、自衛隊を海外に送って戦争させたがっているとしか思えません……」。
 1949年、当時のホセ・フィゲーレス・フェレール大統領の英断により、軍隊を持たない国家となったコスタリカ。この国の選択と現在の姿を描いた映画「コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~」の上映会後、質疑応答に立った初老の女性が興奮気味に語った言葉だ。おそらくは母と同世代と思われるこの女性も、また素直に自分が感じたことを語ったのだろう。

 団塊の世代は、戦前のいわゆる「皇民化教育」への強い反省に基づいた戦後平和教育の申し子だ。一つ上の世代、つまり戦前の教育を受けた焼け跡闇市派世代への戦後教育が教科書の墨塗りからスタートしたのに比べ、団塊の世代は「平和ありき」「戦争否定ありき」という大前提のもとに義務教育を受け、強力な刷り込みを受けて社会人となった。

 その結果として、筆者の母や上映会のご婦人のようないわばプリミティブな平和志向、その裏返しの「とにかく絶対に戦争はダメだ」という徹底した戦争否定のスタンスは、現在に至るまで日本人の意識の根底に刻み込まれたのではないだろうか。前出のコスタリカでも、一般市民から公務員、国会議員に至るまで「コスタリカには軍隊はいらない、ないのが当然」という意識が徹底しているという。

 満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争が日本に与えたあまりにも大きな被害、またこれらの戦争で日本が侵略したアジアの各国や戦火を交えた連合国に対してどれだけの損害を強いたのかを考えると、「戦争は絶対悪」という教育に至った終戦直後の空気がどのようなものだったかは想像に難くない。そしてこの徹底した教育が、戦後70年を超えて日本が「平和国家」であり続けたことのひとつの原動力でもあったのだろう。

 しかし戦争を忌避し続けてきたことが、逆に戦争そのものへの理解を遠ざけてしまっていたこともまた事実である。戦後の日本の周囲だけに限っても、朝鮮戦争やベトナム戦争、中ソ国境紛争に中越戦争など数多くの戦争が戦われてきた。とくにアメリカが関わった戦争においては、日本が後方支援というかたちで関わりを持ったものも多い。ついにイラク戦争では、アメリカから出たとされる「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」という言葉に応じるかたちで自衛隊を国外に送り、ついに戦地に部隊を派遣するに至った。これは「日本は戦争に参加した」といわれても、否定できないところだ。しかし政府は、「派遣された土地は戦地ではない」「現地では戦闘は行われていない」という無理のある説明に汲々としている。なぜか。

 それはやはり、戦後平和教育が刻み込まれた現代の日本人に強く残る「戦争忌避」に配慮したものだ、というのが最も現実的な解釈ではないだろうか。もしかすると、左派勢力が糾弾するように「安倍総理は日本を戦争のできる国にしたがっている!」のかもしれないが、実際には「日本は平和国家、戦争は悪」という日本人の刷り込みを逆なでするのを最も恐れたのではないだろうか。

 日本人が戦後70年の「平和」を楽しみ、精神に深く刻み込まれた「平和国家」というシンボルを傷つけることなく今日まで過ごすことができたのは、ひとえに幸運と各国との関係性のためだ。流動化を続ける東アジア情勢のなかで、より的確な政策判断を下すために、日本人の平和国家意識があるいは障害になることもあるかもしれない。そのとき、我々日本人はこれまで保ってきた教条的な「戦争忌避」から離れ、より現実的に「戦火を避けるためには、何をするべきなのか」を考えるべきときに来ている。

 コスタリカの人々は、自国の安全を保つためにアメリカ全体の安全保障体制(リオ条約)に加盟する、国連を重視し国連のさまざまな活動で主導的な役割を果たすなど、戦争をしない=常備軍を持たないという国是を果たすために狡猾ともいえるほどの外交戦略を用いている。必要であれば、この地域のスーパーパワーであり、リオ条約体制を主導するアメリカとの対立も辞さないほどだ。戦後の、そして現在の日本は、ここまでのシビアさをもって「平和国家」の維持に注力してきただろうか。平和国家と戦争忌避自体は、間違った発想ではない。だが、それがアンタッチャブルとなってしまっては本末転倒である。戦争とは何か、平和とは何か、平和であり続けるためには何が必要なのか。戦後平和教育で育った団塊の世代が人生の黄昏を迎えつつある今だからこそ、すべての前提を取り払って、再度考えなければいけない。

【深水 央】

 

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