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「電力の鬼」松永安左エ門の瞳に今の電力体制はどう映っているか(2)
脱原発・新エネルギー
2011年9月 6日 07:00

 現在、発電に関する新エネルギーについての議論が盛り上がっている。ではそもそも、現在の電力体制はどのような歴史を辿ってきたのだろうか。ここでは、「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(まつなが・やすざえもん、以下松永)の生い立ちから電力事業への関わりまでを見ることで、改めて電力体制のあり方について再考する材料としたい。なお、今回の取材にあたって、「壱岐松永記念館」管理人の定村隆久氏に、事実関係の確認や画像使用などの件でご協力いただいた。以下、定村氏の言葉を交えながら、松永の人物像と電力会社の歴史に迫ってみよう。

<初めての挫折>

 時代の変遷のなか、壱岐の交易の幅も広がっており、松永は中国貿易を手がけることにした。帰郷から1年半が過ぎた頃(1894年)から日清戦争が始まり、壱岐松永記念館管理人 定村 隆久 氏上海貿易でかなりの利益を上げる。約3年間、松永は家業を手伝うなかで金儲けや道楽遊びを体験。ほどなくして家業を弟・英太郎にゆだね復学するも、物足りなさを感じていた松永は、1898(明治31)年に慶応義塾を中退。福澤諭吉の記念帳に「我が人生は闘争なり」と、将来の自身の生涯を暗示するかのような言葉を残している。

 その後、福澤諭吉の紹介で三井呉服店(のちの三越)に入社したが、勤め人が務まるわけもなく、しばらくして松永は仕事を辞めさせられた。次に、福澤の紹介で1899(明治32)年日本銀行に入行。当時は慶應出身の山本達雄第5代総裁のもと、日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され一般職員から幹部までを慶應出身者が占めていたが、これも1年で辞職した。

 そこで、福澤とともにアメリカの材木商社の下請である丸三商会を創業し、自らは神戸支店長を務めた。しかし当時、東京興信所から「福澤桃介は相場好きで事業に安定性がなく、信用皆無、資産僅少」と商社に報告されたため、前金を止められ三井銀行が取引を停止。丸三商会はあえなく破産した。松永はそのまま神戸にとどまり、1901(明治34)年福松商会を創業。その3年後、29歳のとき大分県中津市出身の竹岡カズと結婚した。

 会社が破産し、さらに肺結核で入院していた福澤は、病院のベッド上で株式投資にのめり込み、「株の神様」と言われる投機の天賦の才を開眼させた。折しも日清戦争での勝利で日本の株価が高騰したこともあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を手にした。

 弟分だった松永もおのずとその商売ぶりを学ぶことになる。事業を始め、30歳前後で石炭販売によって財を成した松永は、同じく株式投資にのめりこむが、日露戦争後(1905年頃)の株価暴落の際に手じまいが遅れ一文無しとなる。そこで1回目の隠遁生活に入る。「私は功を急ぎすぎた。野心は必要だが方向が間違っている。投機を捨て去らなければ、企業での成功も到底成し得ない」と反省した松永は、相場師の側面を葬り、実物投資による事業拡大によって利益を上げる、産業資本家としての道を歩み始めた。

(つづく)

【大根田 康介】

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