2度の原爆を経験し、日本人は原子力の圧倒的な力を肌感覚で知った。ある政治家の目には圧倒的火力が魅力的に映ったろうし、ある市民の目には悪魔の力に映ったことだろう。日本政府が選んだ道は原子力の平和利用というものだった。圧倒的な力をコントロールするという先進国の特権のような技術を身につけなくてはならないという強迫観念に似た感情こそが原発普及のエネルギーになったのだ。戦後間もない1954年、中曽根予算と呼ばれる原子力関係予算が初めて日本の国会を通過した。これは原子力技術を政府が後押しする形で身につけようとする意思表示である。日本は原子力の脅威を知ったからこそ、原子力を持たなければならない、という決断に踏み切ったのだ。
以後、半世紀が経過し、原発依存度は当たり前のように右肩上がりで伸長していった。一部の市民や研究者たちは、その危険性と指摘し続けたが、政府や電力企業、原子力推進派の専門家たちのつくりあげた安全神話は崩れることはなかった。2011年になって、やっと原子力は危険であることが証明されたのだ。これで「原発は安全である」という大前提が崩れたことになる。あとは将来を決める作業にとりかかるだけだ。
これは市民の声を代表する政治家たちの仕事である。動かすか否か。今の話題はそれに満ちているが、その前に決めるべきことはないだろうか。場当たり的な「電力が不足するから動かすべし」という議論をする以前に、原子力の行く末をどうするかを決めねばなるまい。
選択肢は、(1)原発は従来どおりに主力電源として活用する、(2)原発は一切、一瞬たりとも稼働させない、(3)新規の原発は建設せずに今ある比較的安全な原発を寿命まで稼働させ自然と脱原発に進む、といったものだろう。(1)の場合ならば以前と同様の電力になるため電気料金は安価になるが原発リスクは残り続ける。(2)の場合、原発リスクは激減するが火力などに頼るため電気料金が高くなり、また、廃炉費用の負担は誰がするのか、どうやって捻出するのか、という問題も発生する。(3)の場合、安全な原発の評価が必要になり、また稼働期間が短いとはいえ、その間のリスクは残る。これら方針を市民一人ひとりが考え、どの方法がよいかを議論し、個々人で結論を出した上、世論に問うてほしいと思う。そして、その結果を踏まえて政治家の方々に決断してもらうのがよいのではないか。人任せにしてきた結果、安全神話を盲信した結果の深刻事故発生である。自分で考えることが大切なのだ。判断材料のひとつとして、次回より、玄海原発で事故が起こった場合のシミュレーションをしてみようと思う。
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