2024年04月19日( 金 )

フォークソングの聖地「つま恋」の生みの親、川上源一氏の素顔(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

海外視察でエレクトーンとリゾートを着想

 川上源一氏は、カンの良さは天才的だった。戦後の混乱期に、オートバイのヤマハ発動機(株)を設立し、斜陽化が取り沙汰されたピアノの日本楽器ともども、優良企業に育て上げた経営手腕は、高く評価された。

 源一氏の転機は、社長就任3年後の1953年。ハワイを振り出しに、米国、欧州、中近東、東南アジアの順に80日間、海外視察旅行をした。『私の履歴書』にこう記している。

〈電気オルガン(現在の電子式オルガン)のメーカーがあるというので、米国のボールドウィンを視察した。我が社には電気技術者がいなかったので、とても作れそうになかった。しかし、私どもが積極的に取り上げなくては将来、すべて輸入に頼らなくてはならなくなる〉

 源一氏は、自社で電気オルガンの開発に取り組む。1959年に第1号が完成。「エレクトーン」と名付けた。音楽を普及させるためには、楽器をつくっているだけではダメ。ヤマハ音楽教室のアイデアも、この旅行で芽生えた。

 リゾート開発の着想も得た。

〈米国で取引先にマイアミの別荘に招待された。椰子、マリンランド、緑豊かな公園。ホテル、ヨットハーバーにモーターボート・・・〉

 源一氏は目を見張った。当時の日本にはなかった豊かさだ。いつか日本もこうした生活を楽しむようになる。この思いがリゾート開発に乗り出すきっかけになった。

piano 東京オリンピックが開催した64年に鳥羽国際ホテルをオープンさせたのを皮切りに、三重県志摩市に合歓の郷(ねむのさと)、静岡県掛川市に「つま恋」、沖縄県竹富町小浜島に「はいむるぶし」と名付けたリゾートを建設した。
 エレクトーンとヤマハ音楽教室の大流行、リゾート事業の成功により、源一氏はヤマハの“中興の祖”と称えられた。1960年代から70年代の20年間はヤマハの黄金時代だった。

一人息子を社長につける妄執に取り憑かれた晩年

 源一氏の晩年は“ヒットラー”と渾名されるなど、猜疑心が強くなった。役員や幹部の自宅に「盗聴器を仕掛けられている」という噂が広がり、役員たちは自宅の電話を絶対に使わないと言われるほど、怯えていた。
 うるさ型の役員や幹部たちを次々と粛清していった源一氏は83年8月、41歳の浩氏をヤマハの社長に就けた。浩氏は、日本大学理工学部機械科卒のエンジニア。浩氏が社長時代の80年代は、ヤマハの黄金時代が去り長期低迷に陥った。

 その難局を乗り切るには、浩氏はトップの器ではなかった。源一氏自身、「浩が武田勝頼になりはしないか。心配だ」と周囲に漏らしたと伝わったほど。武田勝頼は武田信玄の子で、武田家を滅ぼさせた人物として広く知られている。

 ヤマハを川上家の同族会社にしたことに、社内は総反発。92年2月19日、浩氏は労働組合から退職勧告を突きつけられ、社長を辞任した。取締役から追われた源一氏は、その後、長期の入院生活を送り、2002年5月25日、老衰で逝った。享年90。

 ヤマハは、源一氏が進めた多角化の後遺症に苦しんだ。スポーツ用品、住設機器、半導体生産…。ヤマハの経営陣は2000年以降、不採算事業から手を引いていった。13年に社長に就任した中田卓也氏は、源一氏が熱を上げた事業の「つま恋」からの撤退を決断した。

 今後は、音響機器を楽器に並ぶ柱に育てるという。ヤマハの成長は、エレクトーンのようなヒット商品を生み出せるかにかかる。

(了)
【森村 和男】

 
(前)

関連記事