2024年03月29日( 金 )

長崎最大のマンション計画を追う(1)~「集大成」の代償

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 2014年2月に一旦閉店した老舗百貨店「長崎玉屋」とその周辺区域で計画された新大工町地区の再開発計画は、国から補助金を受ける第一種市街地再開発事業として、いよいよ実行の段階に移ろうとしていた。そのようななかで、本事業の核施設・長崎最大のマンション(地上24階建、高さ97m)が建設される「北街区」を分断する土地の所有者が変わった。さまざまな思惑が交錯する再開発事業の実態を追う。

苦戦する老舗の活路・市街地再開発事業

市民に親しまれてきた「玉屋」のマーク<

市民に親しまれてきた「玉屋」のマーク

 「新しい玉屋が集大成になる」。「長崎玉屋」閉店に際し、運営元の(株)佐世保玉屋の田中丸弘子社長は、森ビルグループとの提携とともに冒頭の意気込みを語った。弘子社長が言う「集大成」という言葉には、創業200年を超える老舗としての重みがある。現・佐賀県小城市牛津町で荒物呉服商「田中丸商店」が創業したのが1806(文化3)年10月といわれている。弘子社長は、創業者の初代・田中丸善蔵氏の玄孫にあたる。

 田中丸一族は、2代目・田中丸善蔵氏(初代・善蔵氏の子、弘子氏の曾祖父)の代に2つの家系に分かれる。福岡市初の百貨店「福岡玉屋」(1999年閉店)を運営した(株)福岡玉屋は、初代・善蔵氏の四男・善八氏の流れ。弘子社長の曾祖父で、善八氏の長兄の2代目・善蔵氏は、明治以降に軍事都市として栄えた佐世保市に進出し、佐世保玉屋の前身となる(株)田中丸商店を設立。その後、佐世保、福岡、小倉に百貨店を開業し、「九州の百貨店王」と評されるようになった。

 しかし、200年以上の歴史によって作られた老舗のブランドだけでは、時代とともに変化した業況に適応できない。バブル崩壊後、専門店やセレクトショップの台頭、大規模な複合商業施設の増加により、百貨店業界への逆風が強まった。かつて200億円あった佐世保玉屋の売上は減り続け、2015年2月期には100億円を割り込んだ。このようななか、06年に「諫早玉屋」、14年2月に「長崎玉屋」、16年1月に「伊万里玉屋」をそれぞれ閉店。大幅な人員削減や営業時間短縮(佐世保玉屋は午後6時30分に閉店)を断行した。

 それでも業績の悪化とともに、佐世保玉屋の有利子負債は約50億円近くにまで膨らんでいる。とてもじゃないが、閉店した「長崎玉屋」を自前の資金を用意して建て替える余裕はない。国から補助金を受けられる市街地再開発事業は、経営難の老舗にとって「唯一の活路」だ。ただし、その実現のためには周辺地権者との合意形成が必要となる。「長崎玉屋」周辺の地権者は、弘子社長の「集大成」にともない、所有する土地・建物を一旦手放さなければならないのだ。

 長崎市の都市計画決定後、つまり、準備組合が本組合に移行する『マンション建設計画実施の直前』と言えるタイミングで地権者の一部(新大工町市場協同組合)が土地・建物を売却したことは、合意形成の失敗に等しいと言えるだろう。

(つづく)
【山下 康太】

 
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