2024年04月25日( 木 )

危機にあるアパレル、ワールドをV字回復させた再生請負人の手法(前)

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 国内の百貨店売上高のピークは1991年(暦年)の9兆7,131億円。2016年は5兆9,780億円と6兆円を割った。百貨店市場は4割近く縮んだ。
 長く続く退潮をもたらしたのは、利益率の高い衣料品の不振だ。3兆9,240億円から1兆8,933億円とほぼ半減。衣料品の構成比は4割から3割に落ち込んだ(資料:日本百貨店協会)。百貨店にテナント出店してきた国内アパレルメーカーは大苦戦に陥った。各社はインターネット通販に活路を求める。

業績のV字回復を果たしたワールド

 崖っぷちに追い込まれていたアパレル大手(株)ワールド(兵庫県神戸市、非上場)は、再生請負人の上山健二氏を社長に招き、業績のV字回復を果たした。

 17年3月期連結決算(国際会計基準)の純利益は前期比11倍の81億円で、大幅な増益となった。構造改革初年度の前期(16年3月期)に、500人規模の希望退職や大量閉店で95億円の損失を計上した反動と、これらの固定費削減効果が貢献した。
 売上高に当たる売上収益は2,575億円で、前期と比べて7%減った。構造改革で前期に国内479店舗を閉鎖した影響が大きく、減収だった。一方で、自社サイトの強化でインターネット通販が19%増の169億円と伸びた。婦人服の「アンタイトル」、紳士服の「タケオキクチ」などの著名ブランドごとにEC(電子商取引)担当者を設けたことが奏功した。
 本業の儲けを示す営業利益は24%増の144億円。仕入れの適正化に努め、セールの値引き幅を低く抑えて定価販売率を高めることで、営業利益を底上げした。売上高営業利益率は、前期の4.2%から5.6%へと1.4ポイント改善した。

 ワールドは、再生請負人に社長を変えたことで復活した。

他社に先駈けて新機軸を打ち出す

 ワールドは1959年に、アパレル会社の社員だった畑崎廣敏氏と木口衛氏の2人が独立して創立した。衣料品は当時、日本の基幹産業で老舗がひしめく。後発が同じことをやっても勝ち目はない。他社に先駈けて、次々と新機軸を打ち出した。

 ワールドが成長を遂げるのは、90年代に入ってから。93年にアパレル卸から、いち早く商品企画から小売りまで手がけるSPA(製造小売り)に転換。多くのアパレルメーカーが1社1ブランドの経営戦略を採っているのとは対照的に、多ブランド戦略を展開した。創業者の畑崎廣敏氏は97年、60歳の若さでさっさと社長を退いた。その後、投資家に転身。数々の仕手戦に登場し、有力仕手筋として株式市場の話題をさらってきた。

 ワールドの社長は、畑崎氏の義弟の寺井秀蔵氏が務めた。2000年代には、百貨店を主力とする他のアパレル企業に先駆けて、ショッピングセンターやファッションビルに積極的に出店した。この間、東証一部、大証二部に上場していたが、これまた、他社に先駈けて買収防衛策を導入。MBO(経営陣による買収)を実施して2005年に上場廃止にした。

 しかし、リーマン・ショックで暗転。ショッピングセンター(SC)が乱立したため、SC間の競争が激しくなり、割引販売が常態化し不採算店が増えた。それに追い打ちをかけたのが、ユニクロなどファストファッションの台頭だ。低価格販売の店舗が増え、中価格帯のワールドには逆風が吹いた。
 利益は急減。13年3月期は7億円、14年同期は16億円の赤字(いずれも日本会計基準)と2期連続の最終赤字に陥った。社長の寺井氏が再建に招いたのが、上山健二氏だ。再生請負人に経営を托すのは、これもアパレル会社の先駈けをなすものだった。

(つづく)
【森村 和男】

 
(後)

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