2024年04月24日( 水 )

民俗学では「現実的に『棄老』は存在しない」といわれても…(前)

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大さんのシニアリポート第61回

立命館大学茨木キャンパス内にある「まちライブラリー@OIC」

 11月初旬に、岩手県遠野市に行き、「デンデラ野」と「ダンノハナ」を取材してきた。「デンデラ野」は中世期、近在の村から60歳を越えた老人たちが集まり、1つ屋根の下で共同生活を送った場所。「ダンノハナ」は彼らの共同墓地である。この話は農商務省の官僚で民俗学者だった柳田国男の名著『遠野物語』に出てくる。最も話は遠野在住の佐々木喜善からの聞き書きをまとめたものだ。話の真偽は定かではない。遠野は昔話の宝庫で、座敷童やカッパなどがふんだんに登場する。ところが、「デンデラ野」と「ダンノハナ」の話だけは他の話と微妙に違うのだ。

 12月4日、念願だった桜井政成(立命館大学政策科学部教授 副部長・政策科学)氏にお目にかかる機会を得た。場所は大阪茨木市にある茨木キャンパス。開校3年目とかで、まさにピカピカの校舎である。茨木市とのコラボレーションによる建物だそうで、敷地内には市民のためのホールや市民が自分の本を持ち寄るユニークな図書館(「まちライブラリー@OIC」)などがある。広場は災害時の避難場所となり、簡易トイレとして利用されるマンホールなども設けられている。寒い日だったが、広場で遊ぶ親子の姿があった。構内にあるスターバックス内で話をうかがう。

 取材の内容は、教授がブログで発信された「日本では地縁・血縁が衰退しているのか~高齢者扶助の歴史から考える~」で紹介されたさまざまな事例、とくに遠野の「デンデラ野」「ダンノハナ」の伝説が事実かどうか、民俗学者宮本常一の『忘れられた日本人』にある各地の取材記録についての意見などである。2時間近い取材だったが、実に有意義な時間を過ごさせていただいた。

 後日、教授から「私が調べた学術論文を添付します。『棄老』は実際にあったかどうかは疑わしいと民俗学では捉えているようですね」とのメールが入り、3件の学術論文が添付されていた。論文の一部を紹介したい。

柳田国男が定宿とした「旧高善旅館」(遠野)

 松井富美男(広島大学大学院文学研究科教授・応用哲学)『老いの「場」の研究―自殺防止のための「場」を求めて―』に、「いつの時代でも遺棄の対象となるのは、乳幼児、高齢者、障がい者といった社会的弱者であった。日本では、棄老俗はだいたい仏教文学の題材として扱われているので、本当に棄老俗が存在したかどうかは明らかではない。(中略)柳田國男の『遠野物語拾遺』にも、60歳以上の老人がデンデラ野に棄てられたという記述が見える。これらの話の基になっているのは伝説や伝承である。よって棄老俗が実在したかどうかは、ここからは明らかではない。ちなみに民俗学者たちは、日本には棄老俗は存在しなかったと見ているようである」。

 山本克司(修文大学健康栄養学部教授・社会福祉学)『日本の老人擁護の歴史における高齢者虐待防止要因―古代から江戸時代まで―』には、「生産性が低く大家族でなければ生存できない時代背景で、老人が生産年齢の家族を離れて生活することは、事実上不可能であり、餓死に直結するからである。これは、現代の高齢者虐待防止法の虐待類型に照らせば、『ネグレクト(生活の面倒をみないこと)』に該当する。それだけに、ネグレクトを極力防ぐために庶民の間においては、仏教思想の影響を受けた説話が人々の日常生活における老人擁護の要因となっている」。文字文化に縁の薄い農民には、「孝」を基調とする儒教の影響は考えにくいとし、「庶民のなかには『恩』に基づく老人擁護は経済構造から育ちにくいということである」としている。さらに、『今昔物語』や『信濃国姨捨山語第九』にある姥捨山伝説(棄老説話)を紹介しながら、「ネグレクトは一般庶民の老人虐待として大きな問題であったことが推測される」と、棄老の存在を(「伝説のなかで」と限定しながら)容認しているように感じられる。

(つづく)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

 
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