2024年03月30日( 土 )

「基地隠し」で生まれた名護市・新市長~民意は反映されたのか(中)

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 沖縄県名護市長選は、政府が実現を急ぐ米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題が大きな争点となり、全国的な注目を集めた。2月4日に行われた投開票では、基地容認派の渡具知武豊氏が勝利。自公政権の総力をあげた支援体制で手にした勝利だがしかし、渡具知氏に市長として辺野古移設手続きを進める資格があるのかは疑問だ。渡具知氏は選挙期間中、いっさい基地問題に触れることがなかった。

「パンダ誘致」の失敗

街頭で演説する、稲嶺進氏

 渡具知氏陣営は選挙期間中、稲嶺陣営を「基地反対は地元の総意ではない」と批判した。その根拠の1つにあげていたのが、稲嶺氏の選挙事務所で飛び交う「ヤマトゥ口」(本土言葉)だ。これまでも、そして今回も稲嶺陣営の運動を支える大きな基盤となったのが、日本共産党を中心に本土や名護市外から送りこまれた運動員だったことは事実だ。街頭でノボリを手に稲嶺支持を訴える運動員の言葉のイントネーションは明らかに沖縄のそれではなく、反本土意識の高まりをうけて、日々喧騒を増す選挙運動を冷ややかに見る地元民も少なくなかった。しかし、「外国人部隊」が選挙運動の中枢を担っていたのは、渡具知陣営も同じだ。公明党の支持層である創価学会関係者が続々と名護市入りし、自民党からの派遣も含めて、選挙事務所には本土からの派遣員が多く見られた。

 こういった地元民以外の盛り上がりは名護市長選ではこれまでも見られてきた「日常」だった。にもかかわらず今回の選挙で渡具知陣営の稲嶺批判が説得力をもったのは、反基地の訴えは別として、陣営の掲げた公約が地元民の望むものと一致していなかったからだ。

 例をあげれば、稲嶺氏は「パンダ誘致」を公約としていた。県と連携して市内の「ネオパークオキナワ」にパンダを誘致するとして翁長雄志沖縄県知事も支持を表明したが、あまりにも唐突すぎる公約に、熱心な支持者の間でも賛否は分かれていた。そもそもネオパークオキナワにパンダを飼育する能力や設備はなく、実現が困難なのは明らかだった。

稲嶺陣営、選挙参謀の不在が敗北の要因か

 選挙期間中、渡具知陣営は「体感」レベルでも稲嶺陣営を上回っていた。渡具知陣営の選挙事務所は笑顔と活気にあふれ、前回選挙ではシャットアウトしていた報道機関の取材にも積極的に応じる余裕をみせる。一方、稲嶺事務所の雰囲気は暗く、渡具知陣営と対照的に終始、取材対応に消極的だった。

 こういった戦略ミスを招いた原因とみられているのは、前回選挙まで選挙参謀として稲嶺陣営の選対本部を取り仕切っていた玉城義和元県議会副議長の不在だ。玉城氏は米軍人による少女暴行事件(95年)に抗議する超党派の「10・21県民大会」事務局長を務め、沖縄大衆運動の中心ともいえる人物だった。常に弱者の側に立つ優しさだけでなく、翁長知事を支える「オール沖縄」の基盤をつくるなど、選挙においては緻密な戦略家として数々の激戦を経験した。その玉城氏が16年に死去したことで稲嶺陣営は選挙戦略のかじ取り役を失ったかたちになり、結果的に最後まで迷走を続けた。

 反基地を明確に打ち出す稲嶺氏に対して、渡具知氏は「生活者目線」をキーワードに経済政策を訴えた。今回の選挙が「国vs名護市の最終決戦」と表現されたように、安倍政権の強力な後押しのもとで「カネ」を約束する渡具知氏に、稲嶺陣営は大きな危機感を抱いていた。玉城氏の不在に加え、「反基地だけで戦えるのか」という疑心暗鬼が選対幹部に蔓延しており、その危機感がパンダの誘致という、本来であれば保守陣営がとる手法を選択させた可能性もある。

 実績のある稲嶺氏が負けるとすれば、まさにこのパターンにはまることだった。もし、渡具知氏が真正面から基地問題を争点にしていれば、勝敗は逆転していただろう。事実、地元紙の世論調査では有権者の約6割が米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を重要な争点と認識していた。従って移設容認派の渡具知氏としては、基地問題をいっさい封印して生活者レベルでの不満を拡大し、国と一体となった宣伝攻勢でネガティブキャンペーンを展開するしか勝つ手段はなかった。

 稲嶺陣営に不利だったのは、40代以上の有権者が過去の選挙の経験から北部振興策のまやかしや基地問題についての理解を深めているのに対し、18歳から投票が可能となった若年層がこういった問題に無関心だったことだ。渡具知陣営はそれを熟知しており、若者に人気の小泉進次郎筆頭副幹事長を県立名護高校前で演説させるなど、若年層の取り込みに力を注いだ。

下地票も渡具知氏に流れる

 実は、渡具知氏が稲嶺氏の対抗馬として浮上するまで、自民党沖縄県連内部は二転三転の混乱状態にあった。これまで稲嶺氏批判の急先鋒として知られてきた渡具知氏だが、すぐに市長候補として名前が挙がらなかったのは、渡具知氏個人の資質について不安要素が消えなかったからにほかならない。激しやすく非常に短気な性格で知られ、言葉も激しく思想的にタカ派といっていい人物を温厚な稲嶺氏にぶつけて勝てるのか、公明党県本部は当初渡具知氏擁立に難色を示したという。渡具知陣営が、稲嶺陣営が要求していた公開討論会への参加を断ったのも、基地問題で直接対決することを回避したというより本人の暴言・失言を恐れたというほうが事実に近い。

 最終的に渡具知氏が選ばれたのは、「消去法」によるものだった。自民党県連は当初、元県福祉保健部長で北部地区医師会副会長の宮里達也氏(66)の擁立に動いた。性格も温厚で保健部長時代は部下からの信頼も厚い。医師としての経験を全面に出して北部地区医師会病院と県立北部病院の統合問題に焦点を当て、さらに医療福祉分野を争点にする構想だった。宮里氏の健康問題と家庭問題で擁立が見送られたため、渡具知氏はいわば宮里氏の「穴埋め」候補だったのだ。渋ると思われた公明党も、最終的には菅官房長官に「恩義」を返すかたちで推薦を決定。こうした経緯から、公明党票の一定数が稲嶺氏に流れることも危惧されたが、結果をみると党中央からの指令を徹底して何とか組織の体面を保ったかたちだ。

 公明票とともに渡具知氏勝利に貢献したのが、日本維新の会所属の衆議院議員、下地幹郎氏がもつ票だ。下地氏は昨年の衆院選で沖縄1区から出馬して落選、前回に続いて比例九州ブロックで復活当選していた。下地氏は小選挙区での落選は織り込み済みで、惜敗率での当選を当初から狙っていたが、その下地氏を自民党が推薦したのは、下地氏が落選した場合、今年末に予定される県知事選に立候補することがほぼ間違いなかったからだ。「彼は常に選挙に出ていないと忘れられる」(稲嶺陣営関係者)ためで、そうなると自民党にとっては前回の知事選で翁長雄志(現県知事)、仲井真弘多(元県知事)、下地氏、喜納昌吉氏が並び立って票を食い合った悪夢の再現となる。自民党が推した仲井真氏が下地氏に票を奪われたため、なんとしても下地氏を衆院に迎え入れる必要があったのだ。今回の名護市長選で維新は渡具知氏に推薦を出しており、県知事選でも自民党に全面協力するとみられている。

(つづく)

 
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