2024年04月24日( 水 )

『私の少年時代』戦後の引き上げ体験記(後)

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「引き揚げ者の記録から」
 <北朝鮮から中国へ逃げ惑う一家がいた。畑の大根をかじり何カ月も逃避した親子は逃避生活が耐えられず、母親が「もう死のう」、幼い子どもは「生きたい」と母親に懇願する。何とか頑張って日本へ帰ってきた>この家族の話がテレビで放送されていました。

 多くの子ども達が家族と離れ、迷子になったり捨てられたり、泣き声でソ連兵に見つかり殺されたりしています。多くの子どもたちが残留孤児になっています。私も捨てられて山崎豊子の『大地の子』のようになっていたかもしれないのです。
 乳飲み子の私を捨てずに連れて帰ってくれた両親には、とても感謝しています。

 子どもの頃、母から何度もソ連兵の話を聞かされました。ソ連が北海道を占領する危機もあり下手すると日本は南北に分断されたかもしれないのです。
 ソ連軍によりシベリアに抑留され、極寒の地で十分な食料と暖をとる衣類もないまま、飢えと寒さのなかで悲惨な捕虜生活を強いられ、多くの日本人が亡くなっています。

 沖縄諸島は1972年(昭和47年)5月15日にアメリカから日本に返還されています。一方、いまだロシア(当時はソ連)から北方領土返還の意思を感じることはできません。領土問題は、国と国との熾烈な駆け引きです。ロシアを信用することはかなり難しいと思います。あくまでも個人的な見解ですが、ロシアを「汚いことをする国」だと感じてしまうのです。

 帰国してから一族で向かったのは福岡県にある筑豊の炭鉱町、飯塚の伯母の家でした。伯母の家はちょうど昼時でした。そこに全身汚れまみれの2家族がやってきたので、さぞかしびっくりしたことでしょう。
 伯母の家は自転車屋を営んでおり、伯母自身は産婆もしていました。納屋には保存食もあったそうです。大家族の生活がここから始まります。しかし、食べ盛りの子どもがおり、食料はあっという間に底を尽いてしまったそうです。
 父は戦前の仕事の実績があったこともあり、飯塚の国家公務員(検察庁)へ、叔父は新潟の漁師町で魚の行商を始めました。こうして、それぞれの戦後の暮らしが始まったのです。
 私の家族は飯塚の忠隈炭鉱近くにある狭い家を借りて生活しました。伯母の家もすぐそこでした。食べ物が十分になく、時々しか風呂に入れないような時代でした。防空壕で生活をしていた家族もいました。戦後すぐの昭和22、23年ごろのことです。

 3歳頃、母に連れられ食料の買い出しに行ったことを覚えています。戦後の風景でよく見るポケットがいっぱい付いた白い母のリュックサックをしっかり握って離れないようにしていたのを記憶しています。
 ここから飯塚での私の少年時代が始まります。

追記
・母は3つ星(オリオン座)を見るたびに、「安楽な生活をしていた朝鮮からもよく見えていた」と幾度も話してくれました。
・学生時代(1966年)ワンゲルの春合宿でパスポートを取得して沖縄に行きました。まだアメリカ統治時代で、銃撃戦の跡が残っていました。
・今は飽食の時代となり物資、食料、すべてのものが溢れています。工夫して節約するという「もったいない精神」が忘れられているように思えてなりません。貧しくても心豊かにゆっくり時間が過ぎてゆくのが戦後の暮らしでした。

(了)

2018年8月14日
 脊振の自然を愛する会 代表 池田 友行

(前)

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