2024年04月25日( 木 )

脊振の自然に魅せられて(番外編:背振を離れて想うこと「生活」)(前)

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小豆ごはん
 私の家は貧しい生活を送っていましたが、毎月1日には朝食に小豆ご飯が出てきました。白米は小豆により赤く染まり、豆は割れて白い中身が剥き出しになっていました。食事はいつも麦飯でしたが、小豆ご飯の時だけは白米でした。
 小豆ご飯は月に一回の楽しみでした。「今日は1日か」と子どもながらに月の初めを迎えたことを喜び、何か良いことがありそうだと感じ、ワクワクしていました。今はこんな風習は残っていないですね。

餅つき
 餅つきは決まって伯母の家(肘井自転車店=父の姉)ですると決まっていました。父と従兄弟の康さんとでリズム良く何度もついていました。私も時々ついてみるのですが、子どもにはハードで途中までしかつけませんでした。
 私は餅つきの時だけ、なぜか左利きになります。右利きの人と向かい合うことになり2人横に並んで餅つきをしていました。

 父は何をやらせても器用で、最後の仕上げのひとつきの時に、すばやく臼から餅を取り上げて、つき手に空振りさせることを楽しんでいました。勢いよく振り下ろされた杵が空の臼を叩くと、父は「してやったり」の表情でニヤリと笑います。「やられた」という表情を浮かべる康さんを見て、どこからともなく笑い声があがってきました。
 つきたての餅を皿にのせ、大根おろし入りの醤油で食べるのが楽しみでした。つきたての餅は柔らかく、口に入れると切れずに「グーン」と伸びました。
 餡子餅や、かき餅を伯母がたくさんつくって餅箱に並べていました。カラカラに乾いたかき餅は2月いっぱいまで食べられたと思います。かき餅は火鉢の網に乗せて焼くと“プーッ”と膨らみます。それを素手でつかみ「アツイ、アツイ」と言いながら食べたものです。餅は食べ物が少ない時代における大切な保存食でした。
 飽食の時代になり、保存食にかき餅をつくる家庭も少なくなりました。また温暖化の影響か、餅を長く置いておくとカビが生えてくるようになりました。

薪割
 ガスや電気釜などが普及していない時代、煮炊きには薪を使っていました。どこから買ってきたのかわかりませんが、家に時々、大きな丸太がころがっていました。この丸太を小さくするには薪割りが必要でした。長い丸太を大きな木引き鋸で挽いて適当な長さに切り、斧で丸太を一発で割るにはコツと経験が必要です。薪割りは主に男の仕事でしたが時々、母が薪割りしているのを見たことがあります。薪は炭や石炭と同様に貴重な燃料源でした。
冬になると2、3俵の炭俵を買っていました。炭が火鉢のなかで真っ赤になり、その火鉢に手を伸ばして暖をとっていました。
 丸餅も火鉢の五徳に網を乗せて焼きました、餅が焼きあがると“プーッ”と膨れあがります。食べごろの合図です。オヤツとして砂糖醤油を付けて2、3個食べていました。食べ終わると口の周りに砂糖醤油の跡が残りました。ハンカチやちり紙があまりない時代、汚れは服の袖で拭っていました。当時の子どもたちの袖は鼻水や口の汚れを拭っていたせいで、黒光りしていました。

飯炊き
 7歳下の妹が生まれた当時、しばしば母が寝込んでいました。私が小学3年生ごろのことです。だから私は母の仕事をよく手伝っていました。飯はかまどで炊いていたと記憶しています。
 家の外にある水道の蛇口は私の胸の高さほどありました。私が釜を斜めにし、とぎ汁を流していると、お釜から米が少しこぼれました。通りがかりの女学生からは「私が手伝ってあげるのに」と言われたものです。釜でご飯を炊くとおこげができ、食べると香ばしい味がしたのを覚えています。

富山の薬売り
 年に一度、富山の薬売りが大きな風呂敷を肩から担いで家に来ていました。年に一度しか来ないのに、私の家の場所をよく覚えていたものだと感心していました。置き薬の袋のなかには熊の胆やダルマの絵が描かれた頓服薬がありました。母は薬屋が来ると近所の人たちを集めてワイワイと賑やかに歓談していました。

(つづく)
2018年9月4日記
脊振の自然を愛する会
代表 池田友行

(後)

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