2024年04月20日( 土 )

脊振の自然に魅せられて(番外編:背振を離れて想うこと「生活」)(後)

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赤ギレ
 栄養状態の悪さから、冬になると必ずといっていいほど、手の甲に赤ギレができて痛みます。暖かくなると無性に痒くなり、手の甲をたたいて痒みを我慢しました。子どもの私にとってグランドキャニオンなみに深いひび割れでした。

火事
 冬の夜、遠くの商店街で火の手が上がり夜空を真っ赤に染めていました。いつも嘉穂劇場近くの商店街でした。
父は「あんな小便みたいなホースの水で消せるか」と興奮気味に口にしていました。

屋台のラーメン
 夜に「プーペー」とチャルメラを吹くラーメン屋の屋台がいました。両親はたまに、このラーメンを食べるのが好きで、貧乏だったけど時々注文していました。私もご相伴に預かることがあり「プーペーさん頼もうか」という両親の声に舌なめずりをしていたものです。

洪水
 大雨が降ると遠賀川の堤防が決壊して大洪水が起こりました。場所は、いつも菰田や片島でした。私の家があった片島交差点の近くまで水が溢れてきて、子どもながらに心配で、夜眠れなかったものです。
 翌朝、おそるおそる堤防まで川を見に行くと茶色に淀んだ水がゆっくりと大きな渦を巻きながら下流へと流れていました。足がすくむような光景でした。
 飯塚中学校と飯塚商業高校は土手のそばにあったので床下まで浸かることがありました。生徒はズボンやスカートを裾までまくり上げ廊下の渡り板を筏代わりにして下校していました。水が引くと土手の運動場はヘドロだらけになっていました。
 ちなみに2003年7月の豪雨で、国の登録有形文化財の嘉穂劇場は浸水により壊滅的な被害を受けています。

朝はどこから来るかしら
 家の前にある飯塚警察署のビルの屋上から朝早く(多分8時ごろ)、「朝はどこからくるかしら、あの山越えて、里越えて」という軽快なメロディが小学校に入学する頃まで流れていました。この曲が聞こえてくると心が晴ればれしたのを覚えています。
 この警察署には当時珍しい婦人警察官が1人だけいました。背が高くハイヒールが良く似あう素敵な婦人警官でした。
 私は幼馴染と、この警察署の望楼まで登って何度か遊んだことがあります。最後の鉄製の階段は下が丸見えなので恐怖を覚え、手すりにしがみ付き背筋をゾクゾクさせながら屋上まで上がりました。高所恐怖症はいまでも続いています。
 屋上からは遠賀川や飯塚の街並みが遠くまで見渡せました。当時、ビルは珍しく、学校の校舎も木造の2階建でした。


 私は妙に猫好きで、遠賀川の土手から捨て猫を拾ってきては育てていました。名前は決まって「ミー」と付けていました。
 猫をいくら拾ってきても母は叱りませんでした。私は夜、猫を抱いて寝るのが日課でした。ある日、拾ってきたばかりの子猫と寝ていました。私が寝返りしたときに猫を下敷きにしたらしく、朝起きると子猫は死にかけていました、母は「ほら、猫が下敷きになっとろうが」と言って小猫におじやをつくってくれました。母のおかげもあり、その後、子猫は元気になりました。
 猫は、私の遊び道具にもなっていました。上にほうり投げてもなぜか、くるりと身を捻って手足を下にしてちゃんと地面に着地するのです。もっと高く上げても、不思議と4つ足で着地をします。屋根の高さまでほうり投げてもくるりと身をこなし着地します。しかし、さすがに高すぎたのか猫は少しよろけて地面に着地しました。いじめが過ぎたのか、今でも私の手や腕にはいくつも猫の引っかき傷が残っています。あのゴロゴロと喉を鳴らす猫に夜中、目を覚ますことが多かったものです。
 中学時代、田川で飼っていた黒猫の「ミー」は頭も良く、一番長生きをし、子どももたくさん生みました。私はこの黒猫のミーのことを今でもたまに思い出します。

(了)
2018年9月4日記
脊振の自然を愛する会
代表 池田 友行

(前)

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