2024年04月20日( 土 )

福沢諭吉と現代(3)

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 現在、私たちが手に取ることのできる福沢の著作で最も優れていると思われるのは「文明論之概略」(1875)である。もう1つ挙げるなら、「民情一新」(1879)であろう。この2つで、彼が日本の近代をどのように捉えていたのかがよくわかる。

 「福翁自伝」はどうか。福沢個人の生きざま、物の見方や考え方がわかる点では面白い。読み物としての魅力もある。しかし、彼の文明観・近代文明論となれば、上記の二冊だ。以下、それらをかいつまんで見てみたい。
「文明論之概略」は日本がどうして西洋文明を摂取しなければならないか、その理論的根拠を示した本である。

 まず彼は、彼のいう「文明」とは何かを説明する。「文明」とは人智の発達であり、同時に公徳の発達であると定義し、1つの社会が知能においても道徳においても高い水準に達していることが「文明」だというのである。
これに基づいて世界を見た場合、アメリカを含めた西欧の社会が他を圧しているというのが福沢の評価であった。なんとなれば、欧米は社会が理性の発達を促し、これを保護してもいる。また、人々が知の成果を共有し、互いが住みやすいように尊敬しあい、社会全体がよくなるように協力しあっていると。

 それに比べるとアジアはいまだに封建秩序が支配し、権力者が理性の発達を拒み、一部の人に知的財産が集中し、道徳も身分秩序に縛られて、本当の意味で人間が人間に対する礼儀というものが確立していない。だから、アジアは遅れているのであり、欧米社会を範とした社会改造が必要だというのである。

 このような見解は、現在からみれば誤っていると見ることもできよう。なんとなれば、欧米社会が平等社会でないことは自明のことであるし、人間が人間に対して礼儀を保っているなどというのも実情に反していると思われるからである。

 しかしながら、理性の発達を促進し、知的財産を市民が共有する社会という点ではどうか。やはり欧米社会が、この点では世界をリードしていると言わざるを得ず、その点において、福沢の尺度からすれば、西欧社会が一歩先んじているといえるのである。現時点でも、世界の公準は西欧がつくり出したものとなっており、アジア、アフリカを問わず、(少なくとも表向きには)民主主義を否定する思想を推奨している国はまずない。

 ところで、福沢が西欧社会を見て感心したことに、学校教育と病院、そしてメディアの発達がある。教育が理性の発達と個人の尊重を強化し、人々の声が社会の改善に利するシステムがメディアを通じて機能している、そう彼は見たのである。

 そういうわけで、欧米見学から帰った彼が真っ先に実行しようとしたのは教育改革であり、病院建設をはじめとする医療制度の改革であり、新聞の刊行によるメディアの充実である。これらが実現しなくては「文明」に達することはできないと判断したのだ。慶應義塾、慶応病院、時事新報、これらはみなそうした考えから生まれた。

 「文明論之概略」は日本の近代化の問題点を明らかにしている点でも注目に値する。「文明」は到達目標であるが、残念ながらこれに邁進するわけにはいかない現実があるのだ、と明言している。

 その現実とは、西欧諸国が国家主義を掲げて己の領分を守っているだけでなく、他国の領分、ほかの社会を破壊し、世界をわが物にしているという現実である。

 福沢にすれば、そうした西欧諸国のやり方は「文明」とはほど遠い「野蛮」なものだったが、それでも西欧社会は彼の思う「文明」に最も近いところにあった。日本とすれば、西欧の野蛮さに対しては自己保存に努め、その一方で「文明」の理想に近づこうとしなくてはならないと考えたのである。
このことを言い換えれば、近代という時代の持つ本質的な矛盾に彼は気づいたということでもある。欧米世界は自由とか平等とか人権とかを唱えつつ、世界全体の自由・平等・権利を無視し、一面で「文明」的でありつつ、他面で「野蛮」であるという矛盾だ。

 この矛盾を福沢はわが身に引き受けて、先にも述べた「背に腹は替えられず」の論理に基づいて、まずは身を守ること、そのために「文明の利器」を身につけることを説いた。

 彼ははっきり言っている。「四海同胞」すなわち世界全体が兄弟であるというのが理想である。しかし、そんな理想を実現している国など世界中どこにもない。世界は弱肉強食。まずは身を守り、強くなり、生き延びねばならないと。

 このような彼の見地は、当時としては政府や国民の目を開かせるものがあったにちがいない。欧米列強のすさまじい力を実感していた彼らは、福沢の現実主義には大いに鼓舞されたのである。

 しかしながら、彼の説く合理的精神の発達についてはどうか。国民レベルで合理主義が発達すれば、権力は維持できなくなるのである。
 伝統主義者からも、相当の反発を買った。長い間の中国志向から抜け出せず、「文明」のモデルは東洋しかなかった彼らには、福沢の強調する科学的思考など、伝統破壊にほかならないと映ったのである。

 そういう困難な状況にあって、彼は何とかして自分の見方が多くの人に共有されるよう啓蒙活動を続けた。また、知識人に対しては理論書を書く必要を感じ、それが「文明論之概略」となったのである。

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。 

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