2024年04月20日( 土 )

人類の未来と日本(7)

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 西田哲学の面白いところは、対立から矛盾までは西洋の弁証法と同じだが、西洋の場合は矛盾の解消に向かうのに、西田はそうするか割に、矛盾を矛盾のままにしておくところである。この「いつまでも矛盾したままで共存」が彼の特徴で、これは日本文化の神髄につながるものの、ように思われる。

 たとえば、先に述べた土佐の刃物職人たちは、現代人として機械化を受け入れている。しかし、同時に手仕事もやめない。つまり、21世紀と新石器時代の両方を共存させているのである。これは矛盾であろう。対立は対立のままであろう。しかし、それでもそれを生であると受け入れる。これが西田哲学であり、日本文化なのである。

 神道と仏教の並立にしても、この文化の表れである。2つはたがいに異質のものだ。しかし、これらの1つを切り捨てず、また二者を総合して1つにまとめあげることもせず、2つ並べて併用する。これが日本式であり、新石器時代方式なのである。

 この方式は現代の全人類に欠けるものであり、そうでありながら、人類の基層にあるものだ。そして、その基層にあるものを、日本は歴史を経ながら保ってきたのだ。

 そうはいっても、日本人がこの伝統に目覚めず、世界を席巻する覇権主義の波に呑まれないとは少しもかぎらない。明治から昭和にかけての日本を振り返れば、確実に日本は覇権主義の波にさらわれたのだとわかる。当時の世界は西欧が世界を制覇する時代だった。日本もこの争いに首を突っ込み、悲惨な結果に終わったのである。

 この過ちの根本原因はどこにあったか。私に言わせれば伝統の忘却である。矛盾を矛盾として受け入れるか割に、西洋流で矛盾を解消しようとしたのだ。覇権主義とはそういうものである。

 これを西田風にいえば、「場所」を無視したということだ。もはや「聖なる場所」を信じなくなったということだ。つまり、近代人になった日本人は、自分が新石器時代人であることを忘れたのである。

 新石器時代はアメリカ軍が投下した二発の原爆によって粉々になったか。そんなことは決してない。長崎の爆心地に行ってみれば、そこに力強く草が生えているのが見つかる。芭蕉の「夏草やつはものどもが夢の跡」はいまも健在なのだ。

(了)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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