2024年04月21日( 日 )

地場企業を育成したバンカー~経営者の指導や町の文化向上にも尽力(3)

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福岡銀行元専務 富重 泰行 氏

 地域の発展には、商工業の育成が欠かせない。それを担うのが、主に地元の銀行であろう。預金という形で企業の財産を守るとともに、必要な資金需要に応えることで事業の維持、発展を支える。一般的には、銀行マンに求められるのはこのようなことだが、なかには企業経営者の育成や企業連携、文化度の向上、地域への貢献などを果たし、福岡の経済発展に大きく貢献した銀行マンがいた。今シリーズでは、3名の元バンカーにスポットをあてる。

人と商売の目利き

 百貨店や商業施設などが集中し発展を続ける天神に比べ、低迷を続ける下川端地区。同地区周辺の活性化を図ろうと下川端地区再開発事業が進められ、1996年(平成8)年2月1日には川端百貨店とホテルオークラ福岡(1999年3月開業)の運営事業体が設立された。ホテルや百貨店、美術館などが入る地下4階、地上13階の複合ビルの建設などが計画され、事業全体は「博多リバレイン」と呼ばれた。ホテルオークラ福岡と川端百貨店は、その中核施設として位置づけられ、福岡銀行監査役だった富重氏は、百貨店の社長に就任した。

 富重氏は、博多リバレイン計画が進むなか、さまざまな構想を練っていたようだ。そのための情報も収集した。博多食文化の会世話人・吉田安政氏は富重氏に意見を求められ、「1階は博多らしい市場、2階は市場の食材を使ったレストラン。川端の昔ながらの雰囲気を残しながら、もつ鍋や焼鳥も食べられる食の博多を象徴するエリア」という構想などを話し合ったようだ。

 (株)福新樓社長の張光陽氏も富重氏から意見を求められた1人である。ある日、張氏は、富重氏から福岡銀行に呼ばれた。以前、百貨店の玉屋跡に中華街をつくる構想があったため、その話だと思ったそうだが、今回はリバレイン事業について意見を求められたのだ。張氏は、「中華街ではなく、オリエンタルタウンのほうが福岡市の在り方として適しています。オリエンタルタウンにして、交易センターとして貿易関係の見本市も開き、入国管理局やパスポートセンターも置いてはいかがですか」と提案した。その時、富重氏は、親子ほどの年の差がある張氏の意見を真剣に聞いたという。年齢を重ね、ましてや社会的地位が高くなると、自分よりも若い人や部下の意見を聞かなくなる事例を見聞きするが、優れたトップやリーダーは、さまざまな分野の人と関係を築き、情報を集めるネットワークをもっている。そして、そうした人たちから真摯に意見を聞く力ももっている。だからこそ、さまざまな情報が集まるのだ。

 富重氏が構想した百貨店の実現で、下川端地区がどのように変わったのか大いに興味を覚えるところだが、結局、福岡玉屋が事業から撤退したことで百貨店の出店は白紙となった。

 富重氏は人情に篤い銀行マンだった。バブルが弾けた後、金融機関による資金の引上げが跡を絶たなかった頃でも、富重氏は、資金の返済を求めることが少なかったという。当時を知る関係者は富重氏が「儲かる時もあるから貸したのであって、相手が困ったからといって返済しとろいうのはどうか。我々は金を貸しているだけではない。時間を貸しているのだ」と語ったと言う。富重氏のこの言葉に企業と経営者を育てるバンカーとしていの思いが込められている。時間を貸しているというのは、事業を立ち上げて軌道に乗るまでの時間であったり、事業を立て直すまでの時間を融資したりするといったかたちで支援していたということだろう。そのため、取引先も「富重さんがいるから」といって付き合っているところも多かったという。

 情に篤い一方、人を見る目も確かだった。店を出したいが、資金がないという若い料理人がいた。富重氏は、その料理人の腕と人物を見込んで支援した。料理人は富重氏の期待に応え、繁盛店になったという。

 人と商売の可能性を見極める目利きができ、情に篤いとなれば、経営者だけでなく多くの人が頼ってくるのも当然である。企業や組織は、人がそれぞれの力を発揮することで成長する。従業員がパフォーマンスを上げるには、トップが情を通わせ信頼関係を築き上げることも欠かせないことであるし、富重氏はそれを実践し続けた。

 2010(平成22)年5月9日、富重氏は永眠した。享年80歳。葬儀には、銀行時代の関係者だけでなく、さまざまな業界から大勢の人たちが弔問に訪れた。参列者は、富重氏の付き合いの広さに驚いたという。

(了)
【宇野 秀史】
 

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