2024年04月19日( 金 )

内田は無罪か?日大アメフト事件に見る「日本の法律は世界の非常識」(1)

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青沼隆郎の法律講座 第19回

70年以上遅れている人権歴史

 日本で、武士による政権争いが臨界点に達し、被支配階級である農・工・商の庶民に無関係な政争・内乱が起きていた1863(文久3)年。米国ではリンカーン大統領が自ら大衆に向かって、「民主主義とは人民の、人民による、人民のための政治である」と演説した。(ゲティスバーグの演説)

 その後、日本では明治政府が樹立されたが、その掲げた明治憲法が示すように、国民主権の理念をもたない君主憲法(欽定憲法)であった。

 明治40年代、米国では、法学界の歴史に燦然と名を残す法律家が出現した。ブランダイスである。かれはプライバシー権の概念を提唱し、婦人労働者の労働時間が連邦憲法違反との論陣を張った。日本の「女工哀史」(1925年)で知られる悲惨な婦人労働者の労働環境と比較すれば、いかに日本が人権意識において後進国であったかが歴然である。

 ブランダイスの法学界への貢献はブランダイス・ブリーフ(趣意書)によって代表される。同趣意書はその後の米国法学界における法律家の法律文書の基本形となった。当時のプラグマティズムの思想的背景を基に、実証主義的法律論文の基本形・模範とされた。

 日本の法学教育でブランダイスブリーフを教えることはまずない。それは趣意書自体が実務文書であり、日本には訴状の書き方すら習わない現状がある。しかも現在の実務法律文書は明治以来の伝統様式(認否の繰り返し)を踏襲している。一度でも訴状と答弁書や準備書面の実物を見たことのある人なら、何が争点事実かの把握さえ、素人には困難であることがわかるだろう。日本の弁護士が、ブランダイスブリーフに則って趣意書、弁論書、準備書面などを提出することは少ない。

 日本法学界の後進性を示す最も著名な出来事は、1949(昭和24)年に米国で出版されたジェローム・フランクの「裁かれる裁判所」の日本への本格的導入の不存在と現在も続く無視である。その内容は、米国の司法界・裁判所の腐敗を徹底的に指摘・糾弾したもので、その指摘事実はそっくり現在の日本の裁判所・法曹界に当てはまる。日本の人権歴史が米国や他の先進国に比べ、70年以上も遅れていることを国民は知るべきである。

 なお、ブランダイスもジェローム・フランクも最高裁判事となり米国法曹界の最高指導者になっている。日本の最高裁判事で歴史に名を残す名裁判官が1名も存在しないこととは好対照である。

 筆者の卒業した高校の大先輩に田中耕太郎東大名誉教授がおり、最高裁判所長官にもなった。高校在学中には耳にたこができるほどその誉れを聞かされた。しかし、後年、労働運動を弾圧するため数々の冤罪事件(三鷹事件・下山事件・松川事件)が発生した際、田中長官は裁判官に対し、「世間の雑音には耳をかすな」と訓示した。このため、筆者の田中耕太郎大先輩に対する尊敬の念は雲散霧消した。それ以降、人を肩書や経歴で判断することはなくなった。

「真実」が複数存在する日本

 日本には法律家の数だけ「法律的」真実が存在する。「科学的」真実は唯一無二であるとする定理は万国共通、普遍の原理と思っている人(世界の常識)にとってはとても理解しがたい日本の現実である。

 この日本の常識と世界の常識の本質的差異は何であろうか。それは日本の法律家には「無矛盾性の原則」が欠如していることである。ここでいう法律家とは司法警察員(普通にいえば警察官)であり、検察官であり、裁判官である。これらの法律家は法律によって、事実認定権(何が真実であるかを認定することができる権限―より具体的にいえば法律要件事実の認定権限)を有する。

 具体的には、警察官の捜査権、検察官の捜査権と刑事訴追権、裁判官の裁判権である。これらの強制力をともなう事実認定権の行使の結果が「法律的」真実である。これらの官吏に共通することは全員が法律試験の合格者ということである。法律試験は如何に難しくとも科学的認識論とは無関係である。つまり、日本の事実認定権限者は全員がその事実認定に関する学識経験は一般的大学生の水準にある。

 とくに、日本の教育は高校から文系と理系に分離されるため、文系学生は理系学生に比較して圧倒的に科学的認識論(科学方法論)を学ぶ機会が少ない。これが後述する「法律的」真実の欠陥の真の原因となっている。

 弁護士は本来的に権力としての事実認定権を有しないから、「法律的」真実の主張者たりえないが、日本では法曹一元制度(司法試験制度)により検察官や裁判官と同等の「能力」(本当は同等の資格に過ぎない。資格=能力の論理的飛躍がある)があるとされ、弁護士の認定した事実も「法律的」真実と同格のものとして扱われる神話的「慣習」が存在する。

 その結果、弁護士の認定事実も「法律的」真実として流通する。卑近な例でいえば、相撲協会の危機管理委員会の事実認定やアメフト事件に関する日本大学第三者委員会の事実認定がそれにあたる。

 法律的真実と科学的真実の根本的差異を述べれば、法律的真実は結論に不都合な事実の一切が無視されることである。科学的真実は無矛盾性が客観的に確認された真実で、通常、自然科学者らが公表する真実がその例である。

 ただ、注意しておかなければならないのは自然科学者の発表する真実は検証可能・再現可能な事実に限定される一方、法律家の「法律的」真実はいわゆる「歴史的」事実であり、本来検証も再現もできない過去の一過性的事実である。

 このため、歴史的事実の真実性はその科学的認識それ自体極めて困難である。もともと犯人が証拠を隠滅し、真実を自白しない刑事犯罪について、日本の刑事裁判の有罪率が99%以上であるということが、いかに人間業を超越したものであるかが理解されるであろう。

 日大アメフト事件に関して警視庁が「公表」した内田正人監督無罪論がこの「法律的」真実の典型例である。この「法律的」真実論の重大な背理性を具体的に示し、ひいては社会正義に反する現象が公然と存在し続けている事実を示したい。なお、日大アメフト事件に関しては同じ「法律的」真実として第三者委員会の結論(事実認定)があるが、これまた、警視庁による事実認定と真っ向から対立する事実認定であるから、現象としては無数に成立する「法律的」真実の対立現象となる。

 国民はこれらの無数の「法律的」真実のうち、どれが、科学的真実であるかを論理的に判断する能力が必要となる。

(つづく)

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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