2024年04月23日( 火 )

日本初の冷凍トラックを走らせた女傑 富永シヅ氏(福岡運輸元社長)(前)

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女性創業経営者の草分け

 福岡運輸の創業者、故富永シヅ氏(1910~2006)は日本で初めて冷凍トラックを走らせたことで知られる。実際に開発したのは車体メーカーの矢野特殊自動車(株)だが、富永氏がもちかけアイデアを提供した。

 冷凍車を皮切りに登場した、庫内温度を一定に保って走行する定温車は日本人の食生活を大きく変えた。食の安全性が飛躍的に向上しただけでなく、消費者は多様な食生活を楽しめるようになったからだ。

 のっけから私事で恐縮だが、筆者は1990年代後半に晩年のシヅ氏を福岡空港前の福岡運輸本社で1、2度見かけたことがある。和服姿でお孫さんと思われる女性に付き添われ、小柄だが上品な老婦人という印象だった。うち1度は福岡運輸会長を務めていた末弟の鳥巣英夫氏に会いにきたと記憶している。その後福岡運輸に取材を申し込んだが、体力的に耐えられないとして実現しなかった。

 シヅ氏が身を置いたトラック運送業界はバブル崩壊後の長いトンネルを抜け出て、人手不足を背景に空前の活況を享受している。福岡運輸の業績も絶好調だ。シヅ氏が存命ならこの状況をどう見るだろう。恐らくこう言う に違いない。「いい気になりなさんなよ。世の中のお役にたっとう?」。

 好調な時こそ、女性創業経営者の先駆けになった故人の歩んだ道を振り返るのも悪くはないだろう。

3つの人生を生きる

 シヅ氏は3つの人生を生きた。最初は長崎県五島で生まれ、師範学校を出て20代前半を送った教育者としての人生。2番目は徳島県生まれの網元に嫁ぎ、母として2人の息子を育てる一方、主婦として網元の家を切り盛りした20代後半から30代前半。3番目が夫の死後、一族や従業員を養うため設立した10指に余る会社を率いた経営者としての人生。

 明治42年1月28日、8人兄弟の長女として生まれた。両親とも教育者で、父の鳥巣房太氏は網元の家に生まれたが、家業を継がず教職の道を選び、小学校の校長まで務めた。鳥巣一族は古くから五島列島近海で漁業を営み、シヅ氏の祖父はその傍ら村長、県会議員を歴任した地元の名士だった。

 14歳で長崎県立長崎女子師範学校に入学。父の影響があったかもしれないが、当時地方の女性の中高等教育といえば師範学校しかなかった。シヅ氏の伝記「富永シヅ物語」(椿六郎著、スカイビュープランニング刊)によると、女子師範開校以来という抜群の成績で卒業、18歳で師範学校付属小学校の教員になった。

 鳥巣家は秀才の家系らしく、東大出身者が末弟の英夫氏をはじめシヅ氏の2人の息子、孫で福岡運輸社長・富永泰輔氏と4人いる。

 24歳の時、徳島県から船団を率いて五島に本拠地を移していた富永恒太郎氏との縁談がもち上がり結婚。恒太郎氏38歳で14歳の年の差婚だった。

 富永家も代々の網元で、大正期には九州・五島列島にまで出漁していた。四国近海では漁獲量が限られることから恒太郎氏は昭和期に入り一家上げて長崎県五島玉之浦への移住を決意。すでに旧知の間柄だったシヅ氏の祖父が移転を支援した。恒太郎氏はそれまでの一本釣り漁法に代わって大量に捕獲できる底引き網漁業を導入、一方で捕獲した魚を保管する製氷倉庫会社を設立するなど、事業家としての片鱗をうかがわせる。

 シヅ氏は教員を退職、主婦業のかたわら、船団の経理を手伝うようになる。

結婚、福岡へ、そして夫の死

 恒太郎氏はかねてから獲った魚を売りさばくには消費地に近い場所に拠点を移す必要があると考えていた。五島周辺は漁獲量は豊富だが、離島で大消費地に輸送するのは不便。

 おりから福岡市では漁港整備の一環で船団を誘致する計画がもち上がっていた。市が着目したのが五島に拠点を移していた徳島県出漁団。恒太郎氏も従来から福岡を有力な移転先と見ていたこともあって昭和9年(1934年)10月、移転が実現する。船舶はもとより、漁船員の家族、家財道具一切を上げての大移動だったと伝えられる。五島に移転していた徳島県のほかの出漁団も、恒太郎氏に従って福岡市に引越し、玉之浦地区には1隻の底引き船も残らなかったといわれる。五島では火の消えたような寂しさになることから引き止め運動が起きたという。

 かくしてシヅ氏と福岡の縁ができる。シヅ氏にとっては両親を残して生まれて初めて郷里を離れることになり、期待と不安の相半ばする心中だったと思われる。

 新しい拠点は現在の福岡市中央区西公園に近い北港町。黒田藩の時代は停泊地として利用されていたが、長い間放置されてきたため浚渫から始めなければならなかった。福岡市はここに漁業基地と卸売市場を整備するとともに関連業種を誘致、産業振興を図るという構想だった。

 昭和11年(1936年)長男義昭氏、2年後の13年二男恒二氏が誕生。富永家の将来は前途洋洋のように見えた。シヅ氏は子育てと来客の応対に忙殺される毎日だった。

 しかし、同17年3月、一家を不幸が襲う。過労で入退院を繰り返していた恒太郎氏が48歳で帰らぬ人となったのである。日本は前年12月、米軍相手に太平洋戦争に突入していた。

 シヅ氏33歳。残されたのはまだ幼い2人の子どもと船団の漁師、従業員たちだった。第3の人生に向かって戦時下でシヅ氏の奮闘が始まる。

(つづく)

(後)

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