2024年04月24日( 水 )

古賀市の未利用地8万坪の区画整理、起工式経て、新たな物流拠点へ造成始まる(前)

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 福岡市中心部から好アクセスの立地に、新たな工業団地が誕生する。福岡県古賀市筵内(むしろうち)の約8万坪の広大な未利用地を事業用地として開発を行う「古賀市玄望園土地区画整理事業」が今年1月22日、福岡県に認可された。3月10日の起工式を経て、造成工事が始まっている。当該地は九州自動車道古賀サービスエリアのそばにあり、古賀ICまで約4km、福岡市中心部まで車で30分圏内。将来的には、同工業団地に直結するスマートICの設置も検討されており、利便性はさらに高まる。この30年、バブル崩壊やリーマン・ショックにより計画は2度頓挫したが、関係者の粘り強い交渉の末、開発にかける思いがようやく結実した。

一度は話がまとまるもリーマンで白紙に

古賀市区画整理事業 起工式

 「玄界灘を望む」場所という意味で、名付けられた玄望園地区。実は地図に「玄望園」という地名はなく、通称である。玄望園地区は1960年代にミカン栽培や畜産を目的に開園されたが、80年代のオレンジの輸入自由化により廃園。その後30年間、一帯は雑木林のまま、現在に至っている。80年代半ばごろからほかの事業計画が浮上していたが、いずれも実現には至っていない。最初の開発案では、資産家が「フランス村」をつくり上げる計画が浮上したものの、バブル崩壊の影響を受けて頓挫した。

 次に、第2弾の開発計画が浮上したのが2004年。開発に乗り出したのは、京都市に本拠を置いていたデベロッパーの(株)シスコ・アセット・マネージメント(以下、シスコ社)。土地を一括して、シスコ社が買い取って「一人施行」で区画整理を行う計画が進んでいた。07年9月に地主と地場不動産業者らが土地の売買契約を交わし、同月、その不動産業者がシスコ社に転売するかたちで、シスコ社は土地を所有する予定となった。当時、地権者の合意を含め、開発への段取りは順調に進み、着工を待つのみの状態であった。

 しかし、リーマン・ショックが発生した。この影響で銀行が融資を絞り始めると、シスコ社の経営難が表面化。土地の代金を支払えなくなり、再度、計画が頓挫した。土地の決済が行われなかったことで、契約不履行となり、10年2月に訴訟にまで発展。その後、シスコ社から商号変更した(株)シーエーエムは10年11月に民事再生法の適用を申請し、負債総額約140億円で倒産した。

地域活性の思い、地元の期待は大きく

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 2度目の開発計画も頓挫してしまった。地主含めた関係者の落胆は大きく、しばらく開発の話は影を潜めることとなる。その後、上記裁判が和解の方向に進んだこともあり、計画を再開する動きが始まった。同事業の中心人物の1人である(株)エステートプラン(岩原正法代表)に、相談が寄せられたのだ。

 11年5月、岩原氏が組合施行での区画整理を提案。組合施行では、地権者の同意のもと組合を設立し、組合が事業主体となる。当時のことを岩原氏はこう語る。「最初話を聞いたときは、何度か頓挫していた計画だったので、難しいかと思った。それでも現地を見て、調査しているときに地権者の思いを知って、やれると判断した」――。それでも、2度も失敗した計画に誰が参加してくれるのか。ここからパートナー探しが始まった。

 岩原氏が、地元・古賀市の不動産業者の花鶴不動産商事(庵原義一代表)に出向いたのが13年。庵原代表は、同地の50年の変遷を知る人物だ。「もう一度計画を練り直し、地域を活性化しよう」――お互いの意思は固まった。

 計画には、何度も修正が加えられた。事業規模が大きいため、当然主体となる企業にはリスクも生じる。粘り強い交渉が必要となった。さらに約70名の地権者がいる。

 「本当にできるのか」――2度も計画が頓挫したこともあり、地権者らの反応は渋かった。それでも、地道な交渉が実を結び、地権者の合意を基に14年1月に準備組合を設立。しかし、事業母体である事業代行者がなかなか決まらなかった。

(つづく)
【東城 洋平】

 

(後)

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