2024年04月19日( 金 )

珠海からの中国リポート(1)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

「外国高端人才」?

珠海

 8月末、珠海にやってきた。中国広東省の首都広州から南へ150km。3月に一度訪れていたので、これで2度目である。

 今回は中山大学国際翻訳学院に招かれての長期滞在。3月に学院長に会ったとき、「ぜひここで教壇に立ってもらいたい」と言われた。

 半ば冗談だと思っていたが、日本に戻ってから、そうでないとわかった。院長の秘書から頻繁にメールがきて、そのたびに異なった書類を送るよう言ってきたのである。いわれるままに送って数カ月が過ぎた。しかし、何の反応もない。やっぱり冗談だったのかと思っていたところへ、8月初め、いきなり「外国高端人才」として認証する旨の書状が届いたのである。発行元は中国広東省。「これを持参して、ただちに福岡の中国領事館へ行くように」と書いてあった。

 「高端人才」の何たるかも知らず、領事館に行って窓口でその書状を見せると、先方は「これはすごいです!」という。何がすごいのかと聞くと、「10年間ビザが無料で支給されるんですよ」と向こうが興奮した。キツネにつままれたようだったが、とにかく「すごい」ことにちがいなかった。思わず笑みがこぼれ出た。

 家に戻ってから「高端人才」の何たるかを調べてみた。「一級人材」という意味である。中国政府は2年前にこの制度を設け、海外の識者・技術者・実業家を積極的に招聘しはじめたのだそうだ。自分もその1人に選ばれたかと思うと、光栄に感じざるを得なかった。70を超えて「高端人才」として招かれる。「もう一花咲かせて、日中関係に寄与せねば」と思ったものだ。

 珠海に出発する直前、銀行に行った。日本円を中国元に換金するためだ。もらった紙幣は人民元。相変わらず、毛沢東の肖像があった。いまだに彼は崇拝の対象なのか? そんなことはあり得ないと思ったが、ならどうして紙幣から消え去らないのか。いろいろ考えた挙句、たどりついた結論は「中国人の歴史感覚」というものだった。

 3月に旧満州国の首都新京、すなわち現在の長春を訪れたときに、それを感じた。長春には満州国時代の建物がそのまま残っていて、史跡としてではなく現在も使われており、かつて日本人が建てた郵便局は今でも郵便局として機能している。これに驚いた私は、同行していた長春生まれのTに理由を尋ねると、「当時の建物が丈夫で、今でも使えるからですよ」とあっけない返事だった。なるほど、中国人は聞きしにまさって「実用的」なのだ。

 だが、それだけが「中国的心性」なのか。満州国時代の建物は、様式も、素材も、ほかとは明らかに異なり、見るだけで中国の建造物でないことがわかる。となると、実用性だけでなく、歴史性がそこに刻まれているということにはならないか。過去の記憶を保存しつつ、実用目的にも用いる。そこに私は、中国人の歴史感覚を見るのである。

 すなわち、歴史の記憶を消し去ろうとしない。むしろ、保存し続ける。なぜなら、現在は過去の蓄積の上にあるからだ。中国とは過去の蓄積にほかならず、それが何千年も続いて今があるという認識が、彼らの血肉となっているのではないだろうか。

 人民元の毛沢東も、同じ理由で残っているのではないか。過去の人にはちがいないが、中国現代史の象徴であることに変わりはない。この人を忘れて、現在の中国はあり得ないのだ。従って、その功罪はさておき、新中国の歴史を彼の肖像に託すのである。個人崇拝とはまったく次元が異なる話だ。

 だが、毛沢東はほんとうに過去の人なのか? 一部の中国人にとっては、今でも英雄であろう。少し前の世代の人なら、大半が彼を崇拝していたのではないか。広州でビジネスを展開するPは、こんなことを言っていた。「僕自身は毛沢東なんか尊敬できませんが、僕の祖父は神さまのように崇拝してましたよ。死ぬ時は、全財産を共産党に寄付したんです」

 ここで思い出すのが、3月に会った浙江大学の史学の俊英・Z先生である。毛沢東についてこんなことを言っていたのが、忘れられない。「文化大革命の話はタブーなんですが、共産党内でも毛沢東の評価はわかれています。聞くところによれば、党は毛沢東についての公式評価まで下しているという。革命時の活躍から文化大革命での失敗を差し引いても、100点満点で60点はあるだろうという評価だと聞いています」

 出典が不明なのでどこまで当てになるかわからないが、中国共産党が最近の歴史上の人物の評価まで下しているとは想像もつかないことだった。日本の戦後をつくった吉田茂の評価を公式に行うなど、誰が思いつくだろうか。ここにも、中国の歴史へのこだわりが感じられた。

 中国は歴史に基づいて自らの立ち位置を測定する。一方の日本は、そういう感覚は皆無で、できれば過去など忘れ去ってしまいたいと思っている。よくも悪くも、両国の歴史に対する感性の違いは著しい。日本が中国と対するときは、このことを真先に念頭に置くべきであろう。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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