2024年04月24日( 水 )

企業再生のキーワードは「多様性」~ラグビー日本代表と資生堂の共通点(前)

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 ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会は、日本代表の快進撃に日本中が沸いた。日本にこんなにラグビーファンがいたとは驚きだ。ラグビーは日本国籍をもっていない選手でも日本代表になれる。「多様性」がほかの競技にはないラグビー最大の特徴で、その点は、経営と共通性がある。

ラクビー日本代表が強くなったのは「多様性」にあり

 1995年の第3回ラグビーワールドカップ(南アフリカ大会)は、日本代表と世界のトップチームとの実力差が最も大きく開いた大会だった。日本はニュージーランドに17-145と歴史的大敗を喫したのだ。

 あれから24年。日本代表は奇跡の躍進を遂げ、今回のW杯では初のベスト8進出をはたした。快進撃のキーワードは「多様性」。日本代表メンバー31人中、海外出身者は15人で、過去最多だ。「多様性」の象徴が、ニュージーランド出身のリーチ・マイケル主将である。

 ラグビーが大半の競技と違い、海外出身者でも「3年以上継続居住」していれば、代表になれる規定を設けたのは、ラグビーの母国・英国の選手が英国の植民地でも代表としてプレーできるように配慮したのが始まりとされる。

 島国で同一性の高い日本は、「グチャグチャ」言わなくても「あうんの呼吸」でわかり合えることがある。だが、移民などが多い欧米では、何事も言葉できちんと説明する必要がある。外国人が入ると、必ず言葉にして、数値化、視覚化するコミュニケーションをとるようになるので、プレーの精度があがったのだという。

 これは、経営に共通するものがある。

缶コーヒー「ジョージア」を大ヒットさせたマーケティングのプロ

 化粧品の老舗、資生堂は「多様性」で再生した。

 主役は社長・魚谷雅彦氏。資生堂ブランドを再生させた実績が評価され、2024年までの続投が決まった。14年に就任した魚谷氏は約10年間にわたりトップを務めることになる。資生堂の執行役員の任期は原則として延長しても6年で、魚谷氏は19年度が6年目だった。

 魚谷氏は”助っ人社長”である。ライオン歯磨(現・ライオン)を振り出しに、シティバンク、ヤコブス・スシャール、クラフト・ジャパン・日本コカ・コーラと5つの会社でマーケティングの腕を磨いた。

 魚谷氏の名を轟かせたのは日本コカ・コーラの時代。コカ・コーラは1980年代の成長を支えた缶コーヒー「ジョージア」が伸び悩み、続く大型商品が育たず苦しんでいた。

 マイケル・ホール社長からスカウトされ魚谷氏は1994年、日本コカ・コーラ上級副社長・マーケティング本部長に就任した。40歳の若さだった。

 魚谷氏のデビューは衝撃的だった。会社に入って2週間後、放映中の缶コーヒーのCMを中止。米国で予定していたCMの撮影もキャンセル。数千万円の広告費を無駄にした。

 米国では「ジョージア」はブルーカラー(肉体労働者)の飲み物。筋骨隆々とした港湾労働者が汗だくになって働いた後に、ジョージアをおいしそうに飲むというストーリーが展開されていた。こんなCMでは日本のサラリーマンの共感を得られない、と魚谷氏は考えた。

 「飲料ビジネスの経験のない若造に任せて大丈夫か」。系列ボトラーは反発した。

 94年に始まった「男のやすらぎ」キャンペーンは、無名だった飯島直子を「癒し系女優」として人気タレントに押し上げ、ジョージアのシェアは3年後に53%と10ポイント高まった。次に手がけた「爽健美茶」は、「はとむぎ、げんまい、つきみそう、そうけんびちゃ」のCMソングでこれまた大ヒットとなった。

 そして2000年、缶コーヒー「ジョージア」のCMソングに、1963年に坂本九が歌った「明日があるさ」を採用すると、空前のリバイバル・ヒットとなった。

 翌2001年に「ジョージア」は多くの広告賞でグランプリを受けたばかりではなく、「明日があるさ」という言葉が新語・流行語大賞のトップテンに入賞するなど社会現象を引き起こした。カバーバージョンを歌ったウルフルズはNHKの紅白歌合戦に出場。また、同曲は、2002年春の選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれた。こうした実績が米国本社から評価され、魚谷氏は2001年日本コカ・コーラ社長に就任した。

若い女性から「おばさんブランド」と呼ばれた資生堂の化粧品

 資生堂は百貨店の化粧品売り場と、全国に張りめぐらした化粧品専門店を2本柱にトップメーカーの地位を不動なものにしてきた。しかし、1997年4月の化粧品再販制度の撤廃から資生堂の長期低落が始まる。価格決定権がメーカーから小売業者に移り、販売チャネルは大きく変わった。

 得意としてきた百貨店向けの高級化粧品は低迷。資生堂を支えてきた化粧品の専門店は減少した。代わって、DHC、ファンケルなどネット通販系の化粧品が台頭してきた。若い消費者が多いドラッグストアでは、花王やロート製薬、富士フイルムなど異業種からの参入組にシェアを奪われた。国内の化粧品市場では、資生堂の1人負けが続いた。

 若い女性が「おばさんブランド」と呼ぶ既存ブランドを再生させるしかない。前田新造社長は伝説的なマーケティングのプロの魚谷雅彦氏に白羽の矢を立てた。マーケティングとは商品の販売やサービスを促進するための活動。「売れる仕組み」をつくることだ。

 14年4月、魚谷氏は資生堂社長に就任。140年を越える歴史を誇る同社で役員経験のない外部の人間が社長に就任するのは初めてのことだ。

 「化粧品のイロハもわかっていないド素人に何ができるのか」と、当初、社内は冷ややかなものだった。しかし、“助っ人社長”はタダモノではかった。2020年を目標としていた「売上高1兆円」の中期経営計画を3年前倒しで達成するなど、低迷していた業績を立て直したのである。

(つづく)
【森村 和男】

(後)

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