2024年04月25日( 木 )

日本版「#MeToo」裁判~女性蔑視・男尊女卑の日本社会(2)

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検察官の判断

 本件事件の第2の法律上の問題が検察官の本件事件に対する不起訴処分である。不起訴処分は検察官の公訴権独占の結果であるが、当然、その当否は問題となる。

 検察官の公訴権独占の実際の問題は、検察官の不起訴処分の濫用というかたちで問題となる。

 検察官が公訴を乱発しても、それは裁判手続で正義は担保されており(ただし、これは現在までは建前というのが正確な表現である)起訴の濫用は現実にはあまり問題とはならない。

 しかし、不起訴処分は常に社会不正義と背中合わせで問題となってきた。国民が刑罰で社会不正義に臨んでほしいと思っても、検察が重い腰を上げないという例は現在まで無数に存在してきた。

 本件事件も、まさに、国民の多数が刑事手続きで真実を明らかにして、犯罪であれば、適正に処罰してほしいと願っている事件に他ならない。マスコミで大きく報道されること、国民の関心が高いことがその明白な証拠である。あえて不起訴処分にすること自体が、加害者が時の政権と何らかの関係を有するのではないか、それを検察が忖度しているのではないか、との疑念を生じさせている。私見ではあるが、時の政権はこんな忖度をされては迷惑以外の何物でもないと思っているに違いない。

検察審査会の判断

 検察審査会に関する法律問題は根が深い。それは真実、実態が国民に完全に隠蔽されているからである。この責任の一端はマスコミの制度に関する不勉強、無知にある。

 今回、検察審査会は「不起訴相当」の議決をした。市民の代表として無作為に抽出された検察審査員は本当に実在したのだろうか。本当に真実、自らの正義心、社会人としての常識、認識、感覚、感性で審査事実を審査審議したのであろうか。

 そもそも、審査員が判断材料として読まされた証拠資料は何であったのか。審査員が何を見て、読んで、判断したのかさえ闇のなかである。

 なぜ、このような素朴な疑問が問題となるか。それは、審査員に求められる判断が、そもそも隠蔽されているからである。本件事件は性的暴行事件であるが、争点は明確にただ1点である。

 本件では加害者は性行為自体を認めており、ただ、その行為について、「合意」を主張している。「合意」の有無についての判断は小学生にでもできる。従って、審査員の合議は合意があったと認定したことになる。もし、合意の存在は提供された資料だけでは不明であると決議されたのであれば、それはまさに審議不尽そのものであるし、その場合は起訴して合意の有無そのものを真実究明すべきとして起訴相当とするのが論理的帰結となる。

 本来なら、議決書には「理由」が付記されており、それを公開するのが一番問題ないが、本件ではその肝腎の「理由」は隠蔽され、「議決要旨」として「理由」抜きの結論のみが公表された。これもまた、検察審査会法のザル法たる所以であり、マスコミと国民はここまで真実が隠蔽される「司法手続き」について強く弾劾する必要がある。

 以上のように、検察の公訴権独占の濫用(不起訴処分の乱発)と検察審査会のブラックボックス化は表裏一体の社会不正義制度である。国民はこの不正義を速やかに是正しなければ、検察の横暴は続く。

第3相について

 検察は本件事件の加害者が安倍総理大臣の熱烈な支持ジャーナリストである事実を忖度して不起訴処分とした疑いがもたれている。しかし、さすがに裁判所はそこまで露骨に政権政治家を忖度しない。従って、普通に証拠と法によって裁判した。その結果に国民の大多数が納得した。こうなると、不起訴処分とした検察、逮捕状の執行を直前になって中止させた中村格内閣審議官(当時)の行動は改めて問題となる。

 法論理的には不起訴処分には一事不再理効は働かない。伊藤氏は再度告訴状を提出し、検察が再度不起訴処分としたら、再度検察審査会に審査請求することも一考してほしい。

 本来なら、純然たる完全な私人間の刑事事件、民事事件であるものが、検察の行動、警察の行動の適不適までがからむ政治的問題となってしまった。

 本件は伊藤詩織氏の印象的な美貌とともに、極めて特異な性的暴行事件として歴史に名を残すこととなった。

(つづく)
【凡学 一生】

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