2024年04月20日( 土 )

今や霞ヶ関では「矜持」という言葉は完全に死語となった!(2)

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マクナマラ国防長官は大規模な研究報告を部下に命令

 1967年6月戦争の真っ最中であるが、ベトナム戦争に幻滅を感じていたジョンソン政権のマクナマラ国防長官は、「アメリカがなぜベトナムにこれほど深く介入したのか」という大規模な研究報告を部下に命じ約40人の調査チームをつくった。このチームは1年半かけて調査研究を進め、1969年1月に7000頁47巻(『広辞苑』44巻に相当)におよぶ膨大な歴史的叙述と付属公文書の報告、記録集となって結実した。これが世にいうペンタゴン・ペーパーズ(「米国防総省秘密報告書」)である。エルズバーグはこの記録集の編集、作成にかかわった約40人の1人であり、全容を見た2人のうちの1人でもあった。

 戦争の本質を知ったエルズバーグは、秘密文書を公開の議会でとりあげるよう何人かの政治家を説得したが、期待した反応が得られなかった。これに失望した彼は失職、投獄、処刑を覚悟の上で、1971年2月に「公文書」ペンタゴン・ペーパーズを新聞に告発した。戦争進行中のことであったが、その内容は否定しがたい政府作成の文書としての戦争の真実、不正義を語った。この文書の内容を初めて報道したメディアは「ニューヨークタイムズ」である。

小さな国ベトナムが、アメリカ帝国に打ち勝った

 これに対し、時の大統領ニクソンは、エルズバーグを恐れ、失脚を図った。そのために活動したのが「鉛管工」グループである。このグループは後に民主党本部に侵入して逮捕され、ニクソンはこのことをめぐって弾劾寸前まで追い詰められ、辞任した。(ウォーターゲート事件)こうしてアメリカはベトナム戦争を遂行する力を失い、ベトナム人民の闘いも進んで、1975年ベトナム戦争はアメリカの敗北に終わった。

「見たことがあります」と正直にお答えしました

前川 喜平 氏
前川 喜平 氏

 次に、梓澤弁護士から「エルズバーグに通じるところがある」とバトンを渡されたのは前川喜平現代教育行政研究会代表(元文部科学事務次官)である。前川氏は、開口一番「この企画は乗り気ではありませんでした」(笑い)と述べ、「私は勇気ある告発者ではありません。エルズバーグ氏と並び称されるのは困ります」と前置きをしたうえで「加計学園問題」の顛末を淡々と次のように語った。

 加計学園問題とは国家戦略特別区域に指定された今治市における加計学園グループの岡山理科大学獣医学部新設計画をめぐる問題。安倍晋三首相が友人である加計公太郎氏のために、本来設置認可できないはずの獣医学部を「国家戦略特区」という隠れ蓑を使って、便宜を図ったと考えられている。

 

 一昨年、加計学園に関するさまざまな文部科学省の文書が流出しました。私がメディアに提供したものもありますが、その多くは文科省にいる職員が、それぞれの「正義感」に基づいてリークしたものです。それが、新聞・雑誌などのさまざまなメディアの手に渡り、そのメディアが私のところにやってきて、「見たことがありますか?」とお尋ねになったので「見たことがあります」と正直にお答えしたまでです。

エルズバーグに並び称されるべきは勇気ある職員です

 もともと私がこの問題に関わったのは2016年8月頃から11月頃までというとても短い期間です。私は翌1月に退官するのですが、11月以降は文科省の「天下り問題」対応に忙殺されていました。天下り問題の責任をとっての退官ですので、私自身は天下りをしておりません。そこで、自由な立場で、「見たものは見た」「あったものはあった」とお答えしたわけです。これは取り立てて勇気がいることではありません。

 むしろエルズバーグやスノーデンに並び称されるのは、自己の「正義感」に従い、真相をリークし、今も文科省で立派に仕事をしている顔も名前も知られていない勇気ある職員です。

(つづく)
【金木 亮憲】

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