2024年03月29日( 金 )

劇場街から新聞街、ビジネス街を経て 再開発でさらに変わる(前)

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 1980年代以降、有楽町の街並みは再開発などによって大きく変わった。かつての新聞街・映画街のイメージから、「有楽町マリオン」のオープンや、新宿に移転した都庁跡地での東京国際フォーラムの開所などで、街の様子は一変。2007年に「有楽町イトシア」が開業したことで、有楽町のまちづくりは一服した感があるが、それでもビジネス街として街の賑わいは失われてはいない。再開発プロジェクトに取り組む三菱地所が、有楽町のブランディングを今後どう図っていくのか、有楽町の歴史から今を紐解く。

古地図に見る「有楽町」の由来

有楽町の空撮
有楽町の空撮

 丸の内・銀座・日比谷・皇居外苑に囲まれた有楽町エリアは、商業・MICE・文化・芸術等の多様な機能をもち、多くの個性的な人々が集まるのに適した立地特性がある。その有楽町はどのように成立したか、まずはその歴史を紐解いてみよう。

 有楽町の町名の由来は、織田信長の弟の織田有楽斎長益の屋敷があったから―という説のほか、有楽の屋敷跡を“有楽が原”と称したためなど諸説あるが、テレビ番組などでは前者が定説として紹介されていることもあり、こちらが多くの人に知られている。戦国時代には東京駅付近とともに、東京湾上から入り組んだ入江に浮かぶ洲の上にあった。新橋駅付近は入江を挟んで隣の洲に位置しており、有楽町とは陸続きではなかったのだが、徳川家康の江戸開府により、役所や大名屋敷が立ち並ぶことになる。江戸城の日比谷門から馬場先門、和田倉門にかけての内濠の内側には親藩や譜代の大名屋敷が立ち並び、数寄屋橋から有楽橋、鍛冶橋、呉服橋は外様大名の屋敷があった。

 ところで、有楽町周辺に織田有楽斎が居住した記録はなく、単なる瑞祥地名ではないかという説もある。実際、寛永江戸地図にも織田有楽という名はない。ただし、江戸地図では、「有楽が原」との記載がある。1872(明治5)年の東京地図では「ウラク丁」、1880(明治13)年の東京地図では「ユウラク丁」と変遷している。

 八代将軍・徳川吉宗の時代の有楽町には、奉行所もあった。大岡越前守忠相といえば南町奉行所の名奉行と知られているが、当初は北町奉行所の奉行に就任していた。赴任後、北町奉行所が南町奉行所に改称したため、大岡越前もそのまま南町奉行ということに改まったわけだ。町奉行が江戸の司法・行政・治安の業務を行っており、有楽町は武家屋敷と町人街との接点になっていた重要な地域であった。

 明治維新後、有楽町駅の誕生までは、意外に長い道のりだった。東京駅から有楽町にかけて皇居の堀が伸びてきており、さらに軟弱地盤を固めなければならない理由もあった。この難工事を克服して、1910年6月に有楽町駅は開業した。

震災後は劇場街、そして新聞街へ

 1914年12月には東京駅が完成。丸の内・有楽町エリアはビジネスセンターとしても発展を遂げ、今日の“大丸有”(大手町・丸の内・有楽町)の原型が完成していたが、関東大震災によって有楽町も甚大な被害を受けた。その後の復興で洋風建築が増え、銀座通りに三越、松坂屋、松屋などのデパートが進出。有楽町周辺にも、「邦楽座」「日劇」「宝塚劇場」が立ち並んだ。戦前の昭和には暗いイメージもあるが、西洋文化の影響を受けて、新しい風俗を好む男女も登場。自由で革新的な気風を好む彼ら(モボ・モガ)のお気に入りの場所の1つが、有楽町や銀座であった。

旧都庁庁舎
旧都庁庁舎

 特筆すべきは当時、有楽町はマスコミ街であったことだ。後に移転することになるが、東京日日新聞(現・毎日新聞)、報知新聞、読売新聞に続き、1927年には朝日新聞が有楽町へ進出し新社屋が完成した。また、1889年には東京府庁舎が有楽町駅近くに移転し、しばらく東京の中心の地位を保った。

 戦後、丸の内や銀座のビルは連合軍に接収され、現在の交通会館のあたりには闇市が形成され、人々に潤いを与えた。朝鮮戦争後は、日本も高度成長の波に乗ることになるが、NHKのラジオドラマ「君の名は」が当時の女性たちの話題をさらった。運命的なすれ違いの場所であった有楽町付近の数寄屋橋も話題になり、その後に同名の映画も放映されたが、撮影は数寄屋橋で行われた。

 「君の名は」ブームが終わると堀も埋め立てられ、数寄屋橋は消滅。ちょうどそのころ流行したのがフランク永井の「有楽町で逢いましょう」だった。この歌の登場の陰には、大阪に拠点を置くそごうの進出があった。

今はなき数寄屋橋界隈
今はなき数寄屋橋界隈

 当時の有楽町は現在ほど活気がなかったものの、人通りも増え始めていたころだった。そごうとしては有楽町をブランド化するため、PR作戦を展開。同名の歌もそのうちの1つであり、そごうの東京進出は成功する。65年には有楽町の顔ともいえる回転展望レストランを備えた交通会館ビルが完成する。このころの有楽町は別名“新聞街”と呼ばれていたが、手狭になったこともあり、新聞各社は次々と移転していった。そして有楽町は、新聞街から映画街全盛時代を迎える。日活、東宝、新東宝など日本の映画業界の大手6社の本社が有楽町に集まり、日比谷映画や有楽座、スカラ座などの映画館も軒を並べた。

現在は有楽町マリオンが立っている場所には日本劇場があった
現在は有楽町マリオンが立っている場所には日本劇場があった

 1980年代に入ると、世代交代が行われた。81年から有楽町の顔だった朝日新聞社と日劇の建物が解体され、84年に有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)がオープンし、新たなシンボルが誕生。91年には東京都庁が新宿に移転し、その跡地には、97年1月に東京国際フォーラムが開館した。2000年には有楽町そごうが閉店し、跡地にはビックカメラがオープンした。また、有楽町駅前の再開発が行われ、07年10月には丸井などが入居する新ビル「有楽町イトシア」が開業。「有楽町イトシア」開業後の有楽町の再開発は、一服している感がある。

左に東京国際フォーラム、右は東京交通会館
左に東京国際フォーラム、右は東京交通会館

(つづく)
【長井 雄一朗】

(後)

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