2024年04月25日( 木 )

100年前の危機の時代に立ち向かった北里柴三郎と大倉和親の快挙(前)

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 最近よく目にする言葉に「スペインかぜ」がある。第1次世界大戦末期の1918(大正7)年から1920(大正9)年に世界各国で多くの死者を出したパンデミック(感染爆発)である。国内では人口5,500万人のうち4割強の2,300万人の患者と38万人の死者があった。新型コロナウイルスの感染は、まだ序の口にすぎない。第2波、第3波がくるといわれている。1世紀前の危機に立ち向かった人物を取り上げる。テルモ(株)創設の発起人・北里柴三郎、(株)サカタのタネと(株)INAX(現・(株)LIXIL)の設立を支援した大倉和親である。

わずか7年の間に戦後恐慌、関東大震災、金融恐慌が相次ぐ

 100年前の歴史をおさらいしておこう。第1次世界大戦中の空前の好景気も、1918(大正7)年11月に大戦が終わると、まもなくして泡のように消えた。大戦が終わって列強の生産力が回復するにつれて、輸出は後退した。20(大正)年3月に株式市場が暴落。当時の基幹産業である紡績・製糸業は操業を短縮するなどの不況に見舞われた。これを「戦後恐慌」と呼んでいる。

 23(大正12)年9月、関東大震災によって、京浜地区では工場や事業所のほとんどが焼失し、日本経済は大きな打撃を受けた。このとき、銀行手持ちの手形が大量に決済不能になった。政府は決裁不能となった震災手形に対して、震災手形割引損失補償令で日本銀行からの特別融資を行った。だが、決済は進まなかった。

 若槻礼次郎内閣は、震災手形を処理しようと考え、その法案を議会に諮った。野党の追及に怒った片岡直温(なおはる)蔵相は、東京渡辺銀行の倒産を発言した(実際は金策に成功していた)。この片岡失言が引き金になり、27(昭和2)年3月、銀行への取り付け騒ぎが起こった。これが「金融恐慌」の発端である。

 戦後恐慌から金融恐慌までわずか7年しか経っていない。第1次世界大戦後、三井、三菱などは持株会社をつくり、複数の業種にまたがる巨大コンツェルン(財閥)を形成した。三井・三菱に住友・安田を加えた4大財閥が、金融恐慌・昭和恐慌を乗り越えて、戦前の政治・経済を支配した。
 こうした時代背景を念頭に置いて、話を進める。

北里柴三郎博士が発起人になり、現在のテルモが創設

 21年(大正10)年9月、赤線検温器(株)(現・テルモ(株))が設立された。
 第1次世界大戦後、ヨーロッパの体温計、ことにそれまで日本市場を抑えていたドイツ製体温計の入手が困難になり、医師の間から「国産の良質の体温計を、何とかつくれないものか」という切実な声が沸き起こった。当時の東京医師会会長は、「医師仲間で信頼のおける体温計製造会社をつくってみてはどうだろうか」と考え、医学界の重鎮・北里柴三郎博士に相談した。
 北里博士は賛成し、設立にあたっては設立趣意書の賛成人として名を連ね、設立総会では議長まで務めた。「北里は今まで一商事会社の事柄にたずさわったことはない。医療用の体温計だから引き受けたのだ」と言ったと伝わっている。

 医師だけでは経営はできない。森下博薬房(現・森下仁丹(株))の森下博が取締役相談役として経営に参画、「仁丹体温計」を発売した。
 現在の社名テルモは、体温計をドイツ語で「テルモメーテル」と発音することに由来する。

新紙幣の肖像画になる「細菌学の父」北里柴三郎

 2024年に紙幣が刷新される。新紙幣の肖像画は、1万円札が福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へ変更する。北里は、ペスト菌、破傷風の治療法を開発し、”日本の細菌学の父”と呼ばれる。
 北里柴三郎は1853(嘉永5)年、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれた。幼いころから武芸に励み、学問には目もくれなかった。

 1868年の明治維新で、武士の道は絶たれた。翌1869年、熊本藩の藩校である時習館に入学したが、廃藩置県により時習館が廃止。1871(明治4)年、18歳で熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学した。当初、政治家か軍人になろうと考えていたが、オランダ人医師・マンスフェルトと出会い、顕微鏡で人体の組織をのぞき込んだことで、医学への興味を抱くことになる。その後、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学。卒業後、内務省衛生局に入局した。

 北里が細菌学を専門に扱うようになったのは、1886(明治19)年からの6年間、ドイツに留学したことがきっかけだ。ベルリン大学で、病原微生物学研究の第1人者、ローベルト・コッホに師事し研究に励んだ。留学中の1889(明治22)年に破傷風菌の純粋培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを応用して血清治療を確立した。この業績により、一躍世界的研究者として名声を博した。
 人との出会いが、人生を決めることがある。北里にとっては、マンスフェルトとコッホとの出会いが決定的な意味をもつ。

 帰国後間もない1894(明治27)年、香港で蔓延したペストの原因調査のため現地に赴き、ペスト菌を発見した。
 こうした経験から北里は「社会に役立ってこそ研究の意味がある」と確信する。その理念を実現しようと、北里柴三郎は、テルモの前身会社の創設発起人になった。

 それから、100年。テルモは人工心肺装置(ECMO=エクモ)の国内最大手だ。装置は新型コロナウイルスに感染した重症患者の治療に欠かせない。感染拡大による患者の急増で装置を不足する恐れがあり、増産に乗り出した。テルモは、感染症の予防に生涯をささげた「細菌学の父」北里柴三郎の理念を引き継いでいる。

(つづく)

【森村和男】

(後)

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