2024年03月28日( 木 )

1982年の長崎大水害~携帯電話のない時代のサバイバル術

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 1982年の長崎大水害を経験し、翌年、テレビ長崎の水害1周年の番組に生出演して当時の様子について話したことがある。その時のサバイバルの経験が参考になればと思い、共有する。

被害の実態

死亡者:299人
降雨量:降り始めから、527ミリ

 長崎県西彼杵郡長与町では、1時間あたり187ミリの歴代記録となる豪雨を観測した。

 大水害、生死を分けたものは何か。
「パラパラと裏山から石ころが落ちてきた直後に、ドーンという音がして山崩れした」
 と住民から聞いた。
 澄んだ水が茶色い水に変わって流れ出したら、危険と判断すること。
山崩れの前兆である。

 避難は一瞬の判断である。躊躇せずに勇気ある行動を起こすべし。
 ハザードマップも気象レーダーもなかった時代に貴重な経験をしたと感じている。

当時の状況と行動

 1982年7月23日(金)の昼頃から、5時間も豪雨が続いた。
 当時、私は、ソニーの販売会社の長崎営業所で、勤務していた。
女子社員2名と営業所に残っていたとき、先に長崎市内の自宅に帰宅したS所長から緊急電話が入った。「長崎市内は水が溢れて、大変なことになっている。非常事態だと社長に電話を入れて伝えてくれ」という。

1、営業社員の生存確認

 野母崎半島(長崎半島)に行っている社員には、「長崎市内は大変なことになっている。戻って来るな、特約店に泊めてもらえ」と伝える。

 喫茶店の2階に避難している社員から、「車で帰宅した社員は、車が水を吸い込んでエンジンが止まった」と連絡が入った。

 全員の生存確認が取れたのは、翌朝5時だった(営業所に電話もせず、救助活動をしていたのだった)。
 長与町の自宅に、「水害で2、3日帰れない」と電話を入れた。

2、携帯ラジオで情報を得る(停電で電話も不通に)

 夜になると、卸団地内の非常用バッテリーが切れて、停電になり、電話が不通になった。
 懐中電灯と乾電池を使い、倉庫内の製品の携帯ラジオで情報を得る。
 ラジオは、「長崎市内は満潮と重なり、大水害だ」と伝えていた。

3、自宅の団地内を見回る

 翌早朝に、Sと自宅のある団地内を見回り、被害の甚大さを知った。

<被害の現状>
 国道34号が何キロにもわたって崩落していた(諫早―矢上―日見トンネル)。
 団地内の側溝に車が5段重ねに積み上げられており、まるでスクラップの山だった。
 後日聞いた話では、団地内の婚約中の男女社員が、崩落した国道に転落し、死亡したという。

4、食料と水をサバイバル術に役立てる

 生きるために、昼間から、緊急食料として、倉庫内にたくさんある景品用のぬるい生ビールを飲んでいた。
 停電で水洗トイレが止まったため、ゴミ用の大型ポリバケツを外に置いて、雨水を貯め、洗顔とトイレ用の水にした。

5、女子社員の生存確認

 社屋の裏山から通勤している女子社員がいた。
 翌日、雨が一段落した。がけ崩れの山道で右往左往したものの、彼女の自宅に辿り着き、無事を確認した。女子社員の父親が感動してくれ、溜めていた屋根からの雨水で米を炊き、り飯を全社員分用意してくれた。

6、雨漏りから電子パーツを守る

 同じ棟にあるソニーサービス(株)の社屋は、横なぐりの激しい雨で継ぎ目の壁から雨漏りし始めていた。同社の社員とともにビニールを敷き、電子パーツを雨漏りから守った。

7、東長崎の現状をレポート

 ニュースで流れるのは、長崎市内の災害状況ばかり、
 国道が寸断されていたためか、東長崎には救助隊や報道陣も来なかった。

 発売したばかりのソニーのビデオカメラを車のバッテリーで充電し、肩に担いで、リポーターになって喋りながら現状を撮影した。
 矢上の街に入ると、凄まじい惨状に言葉を失った。

 バスが人を乗せたまま流されていた。公民館のカーテンを救命ロープとして、横断陸橋から救助した。運転手はハンマーで窓ガラスを割り、乗客を救出した。
 トラクターや人を乗せたままの車も流されていた。
倒れた大木が道路を塞いでダムのようになり、住宅が浸水していた。 

8、営業所の社屋から脱出

 私を含めて男女4人で、営業所で2晩を過ごした後に避難した。山道は危険だと判断し、矢上の旧長崎街道沿いは大丈夫だと高台から見て判断した。日見トンネルを通り、蛍茶屋のソニーショップまで1時間歩いて辿りついた。

 日見トンネル前で数台のトラック転落寸前で、トンネル内にも数台の車が取り残されているのを途中で見にした。
 トンネルを抜けると、ぬかるみのなかで自衛隊がスコップを手に、住宅からの救出活動を行っていた。

 眼鏡橋は欄干が破損し、石のアーチは水害に耐えて残っていた。
 諫早経由の道は交通が寸断し、長崎入りできるのは早岐から時津経由の国道206号のみだった。

9、水害後の処置と被害の実態

 浜町の商店街は、1mほどのヘドロで埋まっていた。
 住宅にたまったヘドロを流すにも、大量の水が入る。

 大量の商品のウォークマンを水道水で水洗いし、天日干しにした。
 全国から大勢のサービスマンが、修理応援に駆けつけてくれていた。
 NHKが音頭をとって、電気製品の修理拠点を高台の高校に設けたが、修理品の出し入れができず、大量の水が確保できないため、私の提案で郊外の長与町の空きビルを借りて、ソニー専用の臨時修理センターとした。

2020年7月7日
脊振の自然を愛する会
代表 池田友行

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