2024年03月28日( 木 )

【凡学一生のやさしい法律学】関電責任取締役提訴事件(7)日本の民度は、本当に大丈夫か

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 裁判官による「公共の福祉」論法は、多くの識者の批判を浴びて現在では影を潜めている。しかし、それに代わって「社会全体の利益」や「総合的に判断して」という「抽象的な理由」を使って、国民が権利を請求することを否定している。判決を下す時には、理由を付けることが法の大原則である。しかし、この大原則を裁判官が実質的に無視し続けているのが、司法の実態だ。「理由」とは、誰もが納得できて、事件を踏まえた具体的な事実や論理でなければならない。

 「ヤメ検」の常套句である「不適切であるが違法でない」という「違法性阻却命題」も、違法でない理由をまったく述べていない「偽の命題」だと理解できただろう。この命題による事件の幕引きでは、正当な理由も述べずに、舛添要一氏の疑惑行為を有償で免罪した。そのため、その後、国際政治学者としてテレビで活躍する舛添氏が諸問題に対して述べているコメントや批判がどれほど面白いものであっても、舛添氏に対して品格を欠いていると感じてしまうのだ。舛添氏が「関電疑獄事件」の「ヤメ検」の不正行為を批判することは永遠にないだろう。マスコミは、なぜコメントを求めないのだろうか。

 理由のない判決や判断は、江戸時代の「問答無用」と本質が同じと考えると、現代の「法匪」による「似非論理」(下世話に表現すると、屁理屈)が横行しているのは、江戸時代から民度が進歩していないということだ。某財務大臣は、本当に日本の民度をご存知なのだろうか。

 裁判官も、「ヤメ検」も、「法匪」としての本質は、その権威主義にある。一体誰が、司法試験の合格者に「神の資格」を与えたのか。そろそろ国民も、目を覚まさなければならない時である。

(6)

関連記事