2024年04月24日( 水 )

旭化成工業延岡桃源郷~旭化成建材手抜きに驚愕(1)

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“神の存在”旭化成建材の犯罪行為を、いまだ信じられず

 宮崎県――とくに県北部に住んでいた者たちにとって、今回の旭化成建材の杭打ち手抜き工事=犯罪工事を知って、我が耳を疑ったのではないか!!この地区に住む人たちにとって、旭化成工業(現・旭化成)に対する思慕は神のような存在である。筆者自身も、旭化成工業がある延岡市から南に30kmの距離にある日向市美々津で育った者として、同様の驚きの念を抱いた。
 昭和30年代はじめ頃、筆者の親戚や周囲には、旭化成工業・延岡工場に勤務する者たちが数多くいた。かなり年上の従弟たちも4名いたのである。延岡にも同社関係で仕事をしている親戚が数多くいて、小学校低学年の頃から遊びに行っていたものだ。小学6年までには宮崎(距離55km)には4回しか行った記憶はないが、延岡には20回くらい行ったと思う。それだけ緊密な関係にあった。
 昭和30年代前半までの延岡での主力事業は、レーヨン、ベンベルグという化学繊維であった。だから、たくさんの女工を採用していたのである。旭化成工業延岡に勤務することが、地元では最高のステータスになっていたのだ。当時は、官公庁に就職するよりも名誉あることであった。女工さんが職場結婚できたら『玉の輿に乗れた』と、お祝いを受けるよりも嫉妬をされたと聞く。

一時は宮崎市と二分する勢いがあった

 旭化成工業を延岡に持ってきたのは、野口遵氏である。世界では、1910年代後半から、新しい産業=化学産業が勃興し始めていた。野口遵氏は化学の勉強に励み、イタリアにおいて21年にカザレー式アンモニア工法の使用特許を買い取り、22年3月に延岡でアンモニア工場を立ち上げたのである(詳細は資料添付)。第二次世界大戦末期には、生産拠点である延岡に対して、米軍から戦略的な爆撃を受けた。同社が延岡にあったことのマイナスな点は、爆撃を浴びたこの一点だけであろう。
 ところが、だ。同じ時期に熊本県水俣市に化学工場が稼働された。後世には(株)チッソと呼ばれる化学肥料の会社の社名は、日本窒素肥料(株)である。この会社は、世界的に有名になった公害=『水俣病』を起こしたのだ。その点、延岡に置いては旭化成工業が起こした公害はない。だからこそ、風光明媚な自然環境に恵まれ、囲まれた延岡は『現世の桃源郷』と囁かれたのである。
 延岡市の人口のピークは、77年の15万5,063人である。70年までは、この地区は非常に勢いがあった。延岡市と宮崎市の人口の差が、2万人に足らない時期もあった。人口の僅少さだけではない。経済・文化、あらゆる面で、宮崎市に対抗するパワーが延岡市および宮崎県北部にはあった。進学面では拮抗していたのである。この時期が、宮崎県として一番、活気があったときであろう。

 ところが旭化成工業も、化学繊維業だけでは成り立つことができない、産業構造の大転換を余儀なくされてきた。1970年前後から、延岡に集中していた優秀な人材が、大阪や東京へと転勤されるようになった。同社のなかでの延岡の地盤沈下が進むと、地域の勢いが失われる。
 この時点から宮崎県は、宮崎市一極集中という弊害が顕著になってきた。また、『旭化成工業の発祥の地は延岡』という、社内精神統一の象徴が薄くなり始めた。今回の旭化成建材の騙しの悪意の根源は、ここにあるのではないか!!

(つづく)

旭化成創業者・野口遵
 旭化成の創業者である野口遵(のぐち・したがう)氏は、日本の電気化学工業の発展に大きく貢献した企業家である。
 野口氏は、我が国における電気事業界、化学工業界の先駆者で、1923(大正12)年に世界で初めてカザレー式アンモニア合成法の工業化に成功し、延岡の地に20世紀をリードする産業基地の建設を行い、現在の工業都市「延岡」の礎をつくった。豊富な水資源を有する延岡の地では、水力発電による電力の安定供給が可能であり、化学工業事業と電力事業を車の両輪とするビジネスモデルを構想していた野口氏にとって、延岡での事業展開はある意味、必然のできごとでもあった。国産のアンモニアが実用化されたことを契機として、野口氏はいっそうの事業の多角化を推進する。次々に新規事業に乗り出し、それは形を変えながらも、現在に受け継がれていくこととなる。

 

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