2024年04月24日( 水 )

旭化成工業延岡桃源郷~旭化成建材手抜きに驚愕(2)

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身内が旭化成へ続々、お世話になる
 前回は年齢の差がある従弟たちが旭化成に就職していたことに触れたが、昭和31年以降には兄弟・姪たちがお世話になるようになった。次女は筆者よりも10歳年上の姉である。田舎では【筆者の家族は頭が良い兄弟】と評価されていた。6兄弟の中では次女が一番、頭脳明晰であった。高校時代、担任の先生から『お茶の水女子大学には絶対に合格するから受験しなさい』と奨められた。

 だが姉の下には3人の弟たちがいる。家庭の経済上の都合で進学を断念した。代わりに国家公務員九州地区の試験を受けたらトップで合格したのだ。ところがこの国家公務員試験合格の資格を殴り捨てて旭化成延岡工場に就職した。【旭化成の方が国家公務員になるよりも有利だ】と姉なりの打診があったのであろう。姉は就職して4年、22歳で2つ年上の男性と結婚した。

 この義兄は大分出身であった。非常に頭の切れる人であったのだが、実父が早いうちに他界した事情で大学進学を諦めて旭化成に入社した。あとで触れるが社内は勉強する強力な風土がある。義兄も触発されて通信教育で大学卒業の資格を得た。この義兄は本当に身内へよく気配りし、世話を焼いてくれた人物であった。この兄貴のお蔭で旭化成とは我が一党と関係が濃密になった。

 長男は高校同期の女性と結婚した。兄の嫁(義姉)の妹は筆者と高校が同期である。彼女は同期(女性260人)でのなかで絶世の美人と誉が高かった。彼女の旭化成入社には義兄が骨を折ってくれたのである。彼女は【絶世の美人】と謳われた通りの特典を活かして東大出の同僚を射止め、そして結婚した。結果、現在は旭化成会長の奥様としての地位を甘受している。

 義兄のお世話はこれに留まらない。筆者の長女姉の長女(姪にあたる)の旭化成への就職にも動いてくれた。この姪も筆者と同年配の研究者と職場結婚した。現在は延岡で、夫婦で年金生活を送っている。この姪の妹も看護師をしていたが、見合いで旭化成の技術者と結婚して、その旦那はいま静岡の工場に勤務中だ。身内の為に奔走してくれた義兄は12年前、69歳の若さで永眠した。
中興の祖・宮崎輝
 旭化成の創業者は野口遵である。しかし、現在の旭化成の発展の基礎を築いたのは別人だ。宮崎輝氏がその役割を担った。中興の祖といえる。東大を卒業して同社に入社する。文系にもかかわらず技術に堪能できる勉強をなしとげた。本業の繊維業から多面的な業種転換にも陣頭指揮を執った。仕事が終わり自宅で深夜まで勉強し続けた。【深夜に幹部たちに意見を求めて電話していたこと】を耳にしたことがある。【宮崎社長はいつ眠っているのだ!!】という伝説が完成した。

 この宮崎輝の熱心な勉強ぶりが社内に定着始めた。前記した義兄は宮崎輝の薫陶を受けて、帰宅しても猛勉強したのだ。大学卒の資格も得た。資格も重要であるが、経営マネージメントの実務能力の方がより大切である。義兄は定年前に当時、通信販売業界のトップ企業から、副社長として迎え入れられた。経営マネージメント力を見込まれたからである。期待通りの成果を挙げた。義兄の努力の賜物であろうが、会社が強く勉強させる社風に負う面も著しく大きい。

 またデータ・マックス発足に馳せ参じた中尾勉も旭化成の経理畑で30年間、鍛えられていた。彼の経営マネージメント力は半端ではなかった。弊社の組織ルール造り、経理システム、人事評価査定などに携わってくれた。21年経ってもこの基本取り決めを活用している。弊社の礎石を固めてくれたのが中尾勉だ。昨年70歳で成仏した。12月12日が一周忌になる。
(つづく)

<プロフィール>
宮崎 輝(みやざき・かがやき)
明治42年、長崎県に生まれる。昭和9年旭ベンベルグ絹糸(旭化成工業の前身)に入社。昭和36年から31年間、代表取締役社長、代表取締役会長として同社を世界的企業に育て上げる一方、野口記念館や多額の寄付と行うとともに、延岡市の経済・文化・スポーツの振興、発展に大きく寄与。また、日本化学繊維協会会長をつとめ、日米繊維交渉では業界代表として政府間協定による輸出規制を阻止するために奮闘した。

 

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