2024年04月20日( 土 )

NTT対ドコモ、28年にわたる暗闘の歴史~ドコモの完全子会社化で決着(1)

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 「携帯電話料金の4割値下げ」に執念を燃やす菅義偉政権が誕生した。早速動きがあった。政府が筆頭株主のNTTは、4兆2,500億円を投じてNTTドコモ(以下、ドコモ)を完全子会社化する。ドコモが二の足を踏んできた携帯電話料金の値下げを、菅政権の意をくんでNTT主導で実施するためだ。
 ドコモが1992年にNTTから分離独立して以来、両社の間は緊張関係にあったが、NTTが今回、資本の論理でねじ伏せた。NTTとドコモの暗闘の歴史を振り返る。

NTTの初代社長に送り込まれた真藤恒の失脚

 1985年4月、日本電信電話公社が民営化して、日本電信電話(株)(NTT)が発足した。初代社長は真藤恒。財界の推薦で、民営化を控えた電電公社に石川島播磨重工業(株)社長から送り込まれた。

 真藤は、公社の慣習をことごとく覆した。公社時代には、事務系と技術系が激しくせめぎ合い、双方が交互に総裁を送り出してきた。事務系と技術系はそれぞれが独立した人事体系をもち、お互いに口を挟むことはなかった。その旧弊にメスを入れたのが真藤だ。

 社内の人事を、すべて人事部に集中。公社最大の実力者で、技術系の“法皇”と呼ばれた北原安定副社長が支配する技術王国を崩壊に追い込んだ。返す刀で事務系にも切り込んだ。

 真藤は石川島播磨重工業の技術屋のため、公社のルールに従えば次は事務系になるはずだが、同じ技術系の山口開生を2代目社長に昇格させた。事務系は反発したが、完全に無視された。

 真藤は、温厚な山口を後継者にすえて院政を敷き、改革を押し進めていくつもりだった。しかし、戦後最大の疑獄といわれた「リクルート事件」で、未公開株をもらっていたことが発覚して失脚した。真藤の失脚は、旧公社の内輪の論理を復活させる契機になった。

事務系の労務屋が主導権を握る

 事務系の労務屋が復活した。労務の専門家(プロ)が事務系の主流になったのは、電電公社時代にさかのぼる。50年代に労働運動が先鋭化、地方の電話局長が労働組合員の突き上げを受けて、次々と病に倒れた。

 そこで、本部は大卒の若いキャリアを「労働部」に集め、労働組合(以下、労組)が強い地方の電信電話局長に送り込んだ。本部に戻った彼らはキャリアとして出世階段を駆け上がり、一大勢力を築いた。

 労使交渉で頭角を現したのが、3代目社長の児島仁である。児島は4代目社長に技術系の宮津純一郎を起用して、公社伝来の内輪の論理を守った。

 次は、事務系の出番だ。児島直系の和田紀夫が、5代目社長に就いた。和田はとびきりの労務屋だ。極左勢力が強いとの世評にあった電話局に派遣されるなど、労使の駆け引きにかけてはピカイチだった。キャリアであるにもかかわらず、労務一筋できたことから、労組の信頼も厚く、労組のサポートにより10万人の人員削減の荒業をこなした。

 グループ内の配置転換で合理化を進めるには、労組と太いパイプをもつ和田が適任とされ、社長に起用された。和田に託されたもう1つの重要な仕事は、NTTドコモ対策である。

(つづく)

【森村 和男】

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