2024年04月25日( 木 )

コロナとニューヨーク~イーストサイド・ストーリー(後)

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大嶋 田菜(ニューヨーク在住フリージャーナリスト)

警官による黒人男性殺害への抗議デモ

 数カ月前、ニューヨーク市の感染者数がようやく減少し始めていたころ、ある黒人男性がミネアポリスで警官に窒息死させられる事件が起こり、アメリカの各地で抗議デモがあった。しかしこのような事件は初めてではなく、毎年何十人もの黒人が警官に殺されている。今回はアメリカに長く続いている人種差別に抗議して、黒人のみでなくさまざまな人種の市民が各地でデモを行った。デモは毎日のように行われ何カ月も続き、ミネソタ州などでは警察の残虐行為への対策が本格的になってから、デモはようやく少しずつであるが収まっていった。もちろんニューヨーク市で黒人の多いサウス・ブロンクス、やブルックリン、ウェスト・ハーレム、イースト・ハーレムなどでもこの運動が活発に展開された。

 抗議デモの跡は今でも見られる。イースト・ハーレムに昔からあったプエルトリコの旗やプエルトリコの芸能人を表すミューラル(壁画)の隣の壁には、今回の抗議デモで人々が訴えた「ブラック・ライブズ・マター」の大きな文字が立派に描かれている。

 1950年代のニューヨークを代表する映画、『ウエストサイド・ストーリー』では、プエルトリコ人はアッパー・ウエストサイドに住んでいる。そのころのアッパー・ウエストサイドは今のブロンクスやハーレムのように移民労働者の多い地区だったが、そのうちコロンビア大学とセントラルパークの魅力に引き寄せられて、ミドルクラスの白人が続々と移住してきた。それにともなって物価も上昇し、プエルトリコ人にとっては生活し辛くなったため、彼らはイースト・ハーレムに移動したのだ。今ではアッパー・ウエストサイドといえば俳優や有名人の住む静かな高級住宅地であり、イースト・ハーレムがプエルトリコ人たちの住処となっている。

アート業界の取り組み

静かだった5丁目

 コロナのパンデミックの前までは、筆者自身もその街にあるアートギャラリーによく顔を出していた。スタッフのミーテイングに参加したり、今から思えばまるで嘘のような人混みのなかで展示会のオープニングに出席したりしていた。

 今ではほとんどのギャラリーはオンライン展示しか行えない状態で、ギャラリーが開いているとすれば、前もって電話でアポを取った1人か2人の顧客が空っぽの部屋のなかでポツンと作品を展覧しているのみだ。展示会のオープニングにあるべき迫力がどこにも感じられないが、それでもいずれのギャラリーもZoomなどでオンライン配信を行い、努力して顧客を呼び寄せようとしている。作品をきちんと売り出すこともできなくなった巨大なニューヨークのアート業界にとって、もっとも厳しい時期であるに違いない。

 メトロポリタン美術館(通称:メット)とニューヨーク近代美術館(MoMA)のみがようやく再開した。つい2、3週間前のメットが再開した日には、5丁目の入口の横から長い行列がまだら模様の蛇のように歩道を埋めた。人と人の間には1m半のソーシャルディスタンス、それぞれの人々の顔にはマスク、行列の先には入館者1人ひとりの体温を測る女性警官。それでもみな楽しそうに列に並んでいた。

 その横には今までずっと冬眠していたかと思えるホットドッグ・スタンドが再び販売し始めていた。いつものアラブ系のおじさんらが、元気そうにソーセージを焼いている。それらのニューヨークらしい香りにあやされながら、長い間あまりにも静かすぎたこの5丁目の街も少しずつ生き返っていると感じた。

メット5丁目

(了)


<プロフィール>
大嶋 田菜
(おおしま・たな)
 神奈川県生まれ。スペイン・コンプレテンセ大学社会学部ジャーナリズム専攻卒業。スペイン・エル・ムンド紙(社内賞2度受賞)、東京・共同通信社記者を経てアメリカに渡り、パーソンズ・スクールオブデザイン・イラスト部門卒業。現在、フリーのジャーナリストおよびイラストレーターとしてニューヨークで活動。

(前)

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