2024年04月20日( 土 )

バイオ企業・林原の元社長、林原健氏が死去~マスコミを利用した“バイオの寵児”の神話は砂上の楼閣(3)

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 全国紙の片隅に載っていた訃報記事に目が止まった。「岡山市のバイオ企業、(株)林原の元社長、林原健(はやしばら・けん)氏が10月13日、急性心筋梗塞のため死去した。78歳だった」とある。
 林原氏はかつて“バイオの寵児”ともてはやされたが、それは林原氏とマスコミが一体となってつくり上げた「神話」であった。筆者はそれほどまでにマスコミを利用した経営者を寡聞にして知らない。林原氏の足跡を振り返ってみる。

抗がん剤インターフェロン、天然甘味料トレハロースを開発

 林原氏の経営手法は型破りだった。出社は午前11時半で、退社は午後2時半。社長決裁の稟議書はない。時間のムダとして会議もやらない。勤務時間の短さを問う声に対しては、「トップの仕事は、会社の進むべき方向を決めることと、その決断に対して全責任を負うことに尽きる」と言ってのけた。

 林原氏は経営そのものにはあまり関心がなかった。彼が好奇心をかきたてられたのはバイオの研究である。自宅で終日、バイオ研究に没頭する。社長としての唯一の仕事は、「研究テーマの設定と方向づけ」。林原氏は研究の方向性こそ定めるが、中身は研究員に任せた。それが自由闊達な社風をつくり、数々の独創的な技術を生んだ。

 林原氏が宣言した研究開発型企業として開花するのは1980年代以降だ。81年に製薬化したインターフェロンが、88年に抗がん剤として厚生省の認可を受けバイオ企業へと変貌を遂げた。林原の取得した特許は5,000件を超える。

 なかでも画期的であったのは、94年に林原が開発した天然甘味料トレハロースの新製法だ。トレハロースとは、甘みが砂糖の半分の天然の糖だ。「夢の糖」と呼ばれ、味の素(株)や(株)クレハ、武田薬品工業(株)など大企業が開発にしのぎを削ってきたが、これを人為的につくり出すことは不可能といわれてきた。

 林原は、でんぷんをトレハロースに変える酵素を発見し、世界で初めて安価な大量生産に成功した。廉価・量産化に成功した林原氏は、“バイオの寵児”と謳われた。

父親が遺した優良不動産を担保に、研究や趣味に資金を注ぎ込む

 林原は非上場を貫いた同族企業である。研究開発のみではメシが食えないため、安定した収益を確保するために取り組んだのが不動産事業だ。林原グループの経営は、研究にしか関心がない林原氏に代わって、5つ年下の実弟である専務の靖氏が担った。

 林原兄弟がバイオ事業と不動産事業に手を広げることができたのは、父親の一郎氏が残した莫大な遺産の賜物だった。水あめ王となり巨万の富を手にした一郎氏は次々と不動産を購入していた。岡山駅前の広大な土地を買収したほか、優良資産は東京、京都にもおよんだ。

 一郎氏の研究者と趣味人としての特質を健氏が、一郎氏の事業家の性格を靖が受け継いだ。一郎氏が莫大な資産を遺してくれていたため、健氏は赤字を気にすることなくバイオ研究に資金をつぎ込んだ。高度成長の時代が味方して地価は右肩上がりの上昇を続け、土地がもつ膨大な含み益によって、いくらでも資金を調達できた。

 貯金箱代わりにしたメインバンクの中国銀行は、林原グループが発行済み株式の10.67%(2010年9月末時点。時価は約253億円)を保有する筆頭株主である。

 父親の一郎氏が刀剣コレクションを行っていたように、健氏は興味のおもむくままにチベット仏教の経典や類人猿の研究、ゴビ砂漠での恐竜化石の共同学術調査へ資金を投じることを惜しまなかった。

(つづく)

【森村 和男】

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