2024年04月20日( 土 )

日立グループの創業企業の日立金属をなぜ売却?~日立製作所と日立金属のルーツをたどる(1)

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 (株)日立製作所は、人々が知っている総合電機の日立ではなくなっている。日立はもはや家電の王様、テレビを製造していないのだ。高度成長時代に「重電の雄」の名声をほしいままにしていたが、重電の象徴といえる火力発電所や海外の原子力発電業からの撤退を決めた。日立グループの原点である、創業企業の日立金属(株)を売却する。その理由とは。

上場企業で最後に残った日立金属と日立建機も切り離す

 各メディアは一斉に、日立製作所が日立金属の入札手続きに入ったと報じた。アポロ・グローバル・マネジメント、カーライル・グループ、コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)、ベイン・キャビタルなど複数の米大手投資ファンドが応札を検討している。

 日立製作所は、日立金属の約53%の株式をもつ。一次入札で売却先を絞った後、二次入札に進む見通しだ。日立金属の時価総額は6,000億円で、企業連合による買収の可能性もある。

 日立製作所はloT(モノのインターネット)技術を活用したデジタル技術との関連性を重視して、事業の選択と集中を進めている。日立金属が強みをもつ自動車や航空機向けの特殊鋼などは、その相乗効果が薄いと判断したのだ。

 日立金属は、防衛装備関連の部材も手がける。電気自動車(EV)モーターの基幹部品になるネオジム磁石の世界的な大手だ。その分野で数百件もの特許を押さえており、経済産業省は、この重要技術の海外流出を懸念。官民ファンドの産業革新投資機構(JIC)や国内商社が一部出資し、こうした懸念に配慮する案も出ているという。

 日立製作所には2009年時点で22社の上場子会社があったが、リーマン・ショック後の09年3月期に7,873億円の巨額最終赤字を計上。存続の岐路に立たされたことを契機に、上場子会社との関係の見直しを進めてきた。中期経営計画が終了する21年度末までに上場子会社を本体に取り込むか、売却するかという方針を掲げた。

 今年4月には日立グループの「御三家」の一角だった日立化成(株)を昭和電工(株)に売却。一方、検査機器などを手がける(株)日立ハイテクは、5月に完全子会社化として取り込んだ。残る上場子会社は日立建機(株)と日立金属の2社のみとなった。日立建機は日立ブランドを残すものの、連結決算から切り離すことを決定した。

 日立金属の売却が決まれば、日立製作所が10年にわたって取り組んできた上場子会社見直しの総仕上げになる。

創業企業の日立金属を売却する衝撃

 日立グループの創業企業である日立金属の売却に「日立はここまでやるのか」と多くの人々は驚愕した。ここで、主な企業の創業について綴ってみる。

 世界一の自動車メーカーとなったトヨタ自動車(株)の歴史は、豊田佐吉氏から始まる。佐吉氏は小さいころから発明好きで、外国には自動で動く機械があると聞けば、「自分でつくる」と豪語したことから、「だぼらの佐吉」と呼ばれ、変人扱いされた。ところが、「だぼら」どころか、佐吉氏は日本初の自動織機をつくった。佐吉氏が29歳の時だった。

 「発明王」と賞賛された佐吉氏が、発明の究極の目標としていたG型自動織機を完成させたのは1924(大正13)年。超高速・全自動で布を織ることができる、世界初の自動織機である。その後、(株)豊田自動織機製作所が誕生した。これが、現在の(株)豊田自動織機である。しかしトヨタは、自動車と関係ない豊田自動織機を売却するだろうか。それは、間違えなくありえない。

 三井グループの祖は、伊勢商人の三井高利氏。江戸初期の1673年に江戸で越後屋の屋号の呉服店を開業し、薄利多売の新商法「現銀掛値なし」は大いに成功した。百貨店・(株)三越伊勢丹のルーツである。三井グループは、三越伊勢丹を切り離すだろうか。これまた「ノー」だ。

 日立製作所が日立金属を売却するのは、トヨタが豊田自動織機を、三井グループが三越伊勢丹を売却するようなもので、理解を絶するものがあるだろう。

 しかし、日立グループの形成をたどると、日立製作所と日立金属の発祥は、まったく別のものであり、驚くに当たらない。日立製作所にとって、日立金属は創業企業でも何でもないことが、日立製作所が簡単に日立金属を切り離す理由だ。

(つづく)

【森村 和男】

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