西鉄高架化、駅前再開発も控える 住宅都市・春日&大野城の今昔(2)
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たびたび領主が変わる動乱の中世期
8世紀以降の平安期になると、大陸と日本とを結ぶ貿易拠点都市・博多と、九州における政治の中心地であった遠の朝廷・大宰府を結ぶ中間地に位置していたことで、春日市域や大野城市域でも土地の争奪戦が繰り広げられ、たびたび領主が変わっていったとされている。そうした傾向は平安期から鎌倉期、室町期、安土桃山期に至るまで続き、このエリアは太宰府天満宮のほか、住吉神社や崇福寺などの博多の寺社、そして戦国大名などの所領としての変遷をたどっていった。その一方で、この地の農村では戦乱の激化とともに村の周囲に堀をめぐらせるほか、逆茂木(さかもぎ/先端を尖らせた木の枝を外に向けて並べたバリケードのようなもの)を立てるなど、村人による自衛なども行われていたようだ。
江戸期になると、黒田藩による増産政策の一環として、灌漑用の溜池や用水路などが盛んに造営された。これら溜池などの一部は現在も両市内の各地に残っており、水辺を生かした公園などで利活用され、両市の住環境の向上に寄与している。また、筑前博多から太宰府を通って天領・日田に通じる「日田街道」(通称:太宰府往還)では、博多~二日市間の中間に位置する間の宿(あいのしゅく)として「雑餉隈宿」が設置。同街道では太宰府天満宮への参詣客や物流関係者などの行き交いも多く、交通の要衝として賑わっていたという。ただし、江戸期から明治初期にかけては、日田街道沿いを除けば春日・大野城市域の大部分は肥沃な農村地帯となっていたようだ。
1889(明治22)年4月の町村制施行によって、春日市域では旧・那珂郡5村が合併して「那珂郡春日村」が発足し、一方の大野城市域では旧・御笠郡11村と旧・那珂郡の井相田村字雑餉隈が合併して「御笠郡大野村」が発足。その後、96年4月には那珂郡、御笠郡、席田郡の3郡が統合して「筑紫郡」が発足し、郡区役所は雑餉隈に配置された。
(つづく)
【坂田 憲治】
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