2024年04月26日( 金 )

ともに発展してきた県都と泉都、大分&別府の今昔、そして未来は――(1)

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広大な平地?多くの田?見解分かれる地名の由来

 大分県内の政治・経済・文化の中心地であり、県下1位、九州では5位の47万8,193人(2021年2月28日現在)の人口を擁する県都・大分市と、日本一の源泉数と湧出量を誇り、「おんせん県おおいた」のなかでも温泉に関して突出する県下2位の11万4,733人(同)の人口を擁する泉都・別府市。国東半島と佐賀関半島によって囲まれた別府湾を臨んで隣接している2市はともに別府湾広域都市圏に属しており、合計人口は県内の総人口の半分以上を占めるなど、大分県および東九州における中核的なエリアとして存在感を放っている。これら2つの都市はこれまでどのような歴史を歩み、これからどのように発展を遂げていこうとしているのか――。

  

大分 JR大分駅
JR大分駅

 県名および市名となっている「大分」の地名の由来については、奈良時代に成立した歴史書・日本書紀や、同時期に編纂された豊後国風土記のなかに、その記述が見られる。日本書紀では、景行天皇(第12代天皇、ヤマトタケルの父)が熊襲(くまそ)攻略のために九州巡幸した説話に関する記述のなかに、

「其の地形広大にしてまた麗し。因って碩田(おほきた)と名づく也。碩田、これ於保岐陀(おほきた)と云ふ」

 とある。一方の豊後国風土記では、景行天皇が豊前京都(みやこ)の行宮より巡幸した際に、

「地形(くにがた)を遊覧して嘆き(感嘆し)て曰く、広大なる哉この那(くに)は。宜しく碩田国と名づくべし」

 といったとの記述があり、その後に

「今、大分(おほきた)と謂(い)は斯(こ)れその縁(ことのもと)なり」

 と、「碩田」から「大分」に表記が変わったことについても触れられている。これら2つの歴史書の記述では、当時の大分地域にはよく整備された広大な平地が広がっていたとされ、その「碩(おお)きい田」から転じて大分という地名となったとされている。これが旧来の定説だった。

 だが、実際の大分平野はそれほど広大ではなく、むしろ狭く入り組んだ地形が多い。そのため、その入り組んだ土地に多くの田がつくられている様子を指して、「多き田」から転じて「大分」になったという見解もある。こちらは大分県の公式HPにも記載されており、最近の定説は後者のようだ。

大分 別府 鉄輪温泉
立ち昇る湯煙が特徴的な鉄輪温泉の景観

 一方の別府は、古くから温泉地として知られており、前出の豊後国風土記や万葉集のなかに、「赤湯の泉」(現在の血の池地獄)や「玖倍理湯(くべりゆ)の井」(現在の鉄輪温泉の地獄地帯)などの記述で登場する。地名にある「別府」は、同市に限らず全国各地に同じ漢字を用いた地名(読み方は「べっぷ」のほか、「べふ」など)があるが、もともとの語源は荘園の租税を特別扱いにすることを表す「別免の符」であり、平安末期から鎌倉期にかけて見られた土地制度上の地域呼称である。現在の別府市域は、平安期には豊後国の速見郡朝見(あさみ)郷(文献によっては敵見(あたみ)郷との記述もあり)にあたり、竈門荘と石垣荘という2つの荘園があったとされている。これら2つの荘園は、当時の豊後国で絶大な権力および領地を有し、九州最大の荘園領主であった宇佐八幡宮(宇佐神宮/大分県宇佐市)の所有であり、現在の別府市の地名は「宇佐宮領石垣別符」に由来するものとされている(ただし、近年の研究では「朝見郡弁分」に由来するという説もある)。

(つづく)

【坂田 憲治】

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