2024年03月29日( 金 )

【凡学一生の優しい法律学】国会不召集、憲法53条違憲訴訟の読み方~東京地裁判決(前)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

国家機関としての裁判所の役割

 裁判官はどのような義務を負う公務員か、という政治の根幹となる問題について大部分の日本国民は答えることができない。それは、この問題について「公教育」が存在しないからである。日本の政治政策は一貫して、「よらしむべし、知らしむべからず(民は政治に従わせておくもので、その道理を知らせる必要はない)」という封建為政の原則が貫かれてきた。

 これは封建時代、つまり江戸時代以前から日本政治の基本的潮流であることを国民は自覚していないため、世界から見ると、日本はまさに「井のなかの蛙」による政治となっている。もちろん、井のなかの蛙はその自覚がないため、一部の自覚のある日本人にとっては、無念だという強い思いを禁じ得ない。

 その根本には日本人の法意識、端的に言うと法的知識の問題がある。かつて『日本人の法意識』という著作を発表した川島武宜博士も、国家が政治や公教育において、ここまで法的情報を隠蔽し続けるとは思いもしなかっただろう。つまり、日本人の法意識を議論する前提となる法知識、法的論理構成力がゼロなのである。基本的な知識そのものがないため、法意識を論ずる余地はない。日本はまさに「絶望の法治国」である。

 法知識は文明国で生きていくために必要な社会常識でもある。日本人には現代の文明基準に沿う程度の社会常識がない、との自覚はないため、先進文明国から見たら理解できない現象が多数存在する。その1つが、日本の司法権の実態である。

司法権を担う法務官僚は敗戦後も変わらない

 太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦によって、戦争を遂行した軍閥政治勢力(軍人および政治家)は進駐軍GHQにより東京裁判などで政治の中枢からパージされた。しかし、国家機関を運用していた公務員(当時は官吏)までパージするのは限界があった。とくに専門性が高い司法官僚(裁判官)がパージされることはなく、裁判制度では明治政権以来の陣容が継続された。

 大審院が最高裁となるなど制度や組織の名称は変わったが、担当する人間は同じであり、実質は何も変わらなかった。卑近な例では、不祥事が続いた「社会保険庁」が「日本年金機構」という名称に変更されても、実務担当の公務員の大部分が横すべりして温存されたため、いい加減な業務遂行体質は何ら変わっていない。

 裁判官の構成に変更がないため、明治憲法にない国民主権や三権分立という概念を裁判官が身に着けていないことは容易に理解できる。その結果、日本国憲法が施行されても司法権は旧態依然であった。その典型例が、安倍晋三前内閣の国会不召集についての憲法53条訴訟における日本の「司法消極主義」、今般の東京地裁判決である。

 ここまでの説明から、直感の優れた人であれば、明治憲法感覚の裁判官による憲法訴訟観「司法消極主義」は原理が180度転換した日本国憲法とは相いれないため、論理的にも矛盾が存在するはずであると思うに違いない。

 本稿はまさに、その論理的、原理的矛盾について具体的な知識と情報を提供する。つまり、司法消極主義はまさに日本国憲法に違背する明治憲法史観に立脚したものに他ならない。

 現行の裁判官には憲法的正当性がない。これは裁判官自身が自覚している本質的弱点であるため、裁判官は常に保身のためにも行政権に隷属する。日本の裁判官は純然たる公務員で、民選議員性、つまり国民の直接選挙で選任された代議員の資格をもたないのだ。

 国権の行使は国民の直接選挙によって選任される正当化される代理人権限であり、そのような公務員(特別職公務員)の選定罷免権は国民固有の権限であることは憲法でも宣言されている。

 一方、裁判官は国民の直接選挙で選任されていない、単なる競争選抜試験(以前の高等文官試験、現在は上級公務員試験と司法試験)で選任され、終身雇用される純然たる公務員である。ただし、裁判官は10年任期・裁量再任制であり、その身分は一層、任命権者に隷属する運命にある。

 現実にはデタラメ判決を出した裁判官を国民が罷免する手段もなく、そもそも裁判官を国民が選任する手続きもなく、あるのは北朝鮮の独裁者、金一族の信任投票と同じ程度の馬鹿げた「最高裁判所裁判官国民審査」だけである。つまり、どんな判決を出しても裁判官は実質的任命者である最高裁判所事務総局(司法官僚の最高位者群)および内閣の意向に反しない限り、身分は保障されている。逆に内閣に不都合な判決を出す裁判官は容赦なく再任拒否にあう。これが司法消極主義判決の基本的背景である。

 司法消極主義には論理的、法理的な矛盾と背理があるが、これは専門的な「議論風」であるため、法的知識がないことを自覚する国民には敬遠されてきた。この重要な論理からの逃避も「井のなかの蛙」の弱点の1つであるから、この際、克服していただきたい。法的論理は基本的には常識的理解の範囲にあるが、それを難解に解説するのは日本の伝統的な法匪・ニセ学者・御用学者に他ならない。

(つづく)

(中)

関連記事