2024年04月20日( 土 )

園村剛二サンコーホールディングス前社長、経営者を超越した思想家(1)実践の道場において思想を究める

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 半世紀近く福岡のゼネコンの経営者を眺めてきた。しかし、園村剛二氏のような経営者にはお目にかかったことがない。性格が潔い、淡白、気品があるというレベルではないのだ。園村氏の最終的な決断は、経営者というレベルを超えて思想家のレベルに達したと評価できる。福岡にとどまらず、日本全体を俯瞰しても、ゼネコンの経営者で園村氏のように思想家の水準にまで達した逸材は管見の限り知らない。

会社との全ての関りを捨てて退任

サンコーホールディングス(株)前代表取締役社長、(株)サンコービルド前代表取締役会長 園村 剛二 氏
サンコーホールディングス(株)前代表取締役社長
(株)サンコービルド前代表取締役会長
園村 剛二 氏

 本レポートの結論を先に述べる。福岡のゼネコン業界の誰もが園村氏について、「(株)サンコービルドを福岡トップクラスの企業へと躍進させた中興の祖」として評価できると認識している。この躍進の足跡については次回以降触れる。この中興の祖・園村氏はつい先月、3月31日をもってサンコービルドおよび持株会社サンコーホールディングス(株)の役職から完全に身を退いた。本人は「当グループの定年は70歳と決まっている。だから引退したというだけのことであり、取り決め通りにことを進めただけだ」と平然と言い切った。

 2009年4月にサンコービルド代表取締役社長に就任してから12年間、「中興の祖」と評価されるほどの実績を上げてきた園村氏が、なぜ会社との関係を絶ち切る決断を淡々と下したのか。同社幹部は園村氏について、「12年前の経営内容は非常に厳しかった。僅かの時間に経営状態を誇れる状態にまで仕上げた功績がある」と論じる。「俺が会社を良くしたのだと自慢したり、私欲をもったりしてもおかしくないのに」と思う。

 70歳定年であっても、“中興の祖”であれば「顧問、相談役」という肩書で残るのが世の常だ。当然、松川伸太郎社長も「ぜひ、顧問として残ってください」と必死で慰留したはずだが、園村氏は「俺が70歳定年(社長・会長)、取締役67歳定年を決めたのだ。ルールを決めた本人が最初から破るようなことをしたらみんなに示しがつかない。組織を崩壊させる遠因になる」と頑なに断わり続けた。終始一貫、ブレがない。

 それだけではない。保有していた持株会社の株もすべて額面で手放した。「肩書はない、株も持たない」となれば会社への発言権の根拠を失う。会社と赤の他人の関係になったのだ。かつて園村氏から雷山ゴルフ場の会員権取得を頼まれたことがあったが、自身の会員権も会社幹部のものへと名義を変更したというから驚きだ。このように会社とのつながりを全て断ち切ったのである。

三井鉱山の子会社として辛酸を舐める貴重な体験

 園村氏のプロフィールは下記の通りである。地元・飯塚の麻生建設など2社の建設会社に勤務したのち、82年4月、32歳のときに三井鉱山の子会社の三鉱建設工業(株)(現・サンコービルド)に入社した。この初期の時代の体験が同氏の原点となった。親会社のお上がりさん(定年組の幹部)が必ず2年程度、社長および要職に天下りしてくる。給料分働いてくれれば文句はないのだが、何の貢献も働きもせずに平均2年で交代していく。

 園村氏は心のなかで強い憤怒の念をおぼえ、それが大きくなっていく。「これでは社内の雰囲気が悪くなり、社員の士気にも関わる。俺たちの会社という一体感も生まれない。やはり社内の人間が社長のポストに就くルールをつくらないと本質的な解決にはならない」という信念を強めた。そして会社を「社員たちのもの」とするため、「社内の誰もが努力すれば社長になれるルールつくりを行う」構想を固めていった。正に「会社は誰のものか、社員たちのものだ」という実践を思想に昇華させていったのである。それを後押ししたのが、親会社の事実上の経営破綻であった。


<プロフィール>
園村 剛二(そのむら ごうじ)

 1950年6月生まれ、福岡県田川市出身。近畿大学卒、地場建設会社を経て三鉱建設工業(現・サンコービルド)に入社。建設部長、大牟田支店長、本社営業部長、営業本部長、常務取締役を経て09年4月に代表取締役社長に就任。14年2月にサンコーホールディングスを設立し代表取締役に就任、16年4月にサンコービルドの代表取締役会長に就任。21年3月に2社の代表取締役を定年で引退する。

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