2024年04月19日( 金 )

知的に自立した若者を育てよ〜教育現場からの報告と提言(2)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

ライター 黒川 晶

「勉強漬け」の成果:ぼやけた知識の堆積

 「学生は勉強せずに遊ぶもの」。これは、少なくとも1990年代までの「学生」観としては、当たらずとも遠からずであったろうか。当時の学生は親元からの仕送りもまだ豊かで、加えて売り手市場で競争なく大企業に就職できるという心理的余裕もあった。しかし、昨今の高校生・大学生はそうではない。彼らが「勉強」に充てる時間たるや、苛烈な受験戦争を強いられた第二次ベビーブーマー(筆者もその1人である)ですら、その比ではない。

 学生らの話では、近年、進学校といわれる高校では、毎日7時間目までびっしり授業が詰まっているのみならず、1時間目の前には「朝補習」、7時間目の後にも「補習」がある。下校後に塾へ直行する学生も多い。さらに、学校が塾や予備校による各種模試を一括契約しており、毎週末はその受験に充てられる。大学へ入ったのちも、とくに1年次は1週間びっしり講義を入れねばならず、しかも文科省の「お達し」により、1つの授業に前後2時間ずつの予習復習を行うとされる。まさに「勉強漬け」の日々である。

 ならば、大学生のうちにさぞかし豊富な知識と幅広い視野が備わっていることだろうと思いきや、なんと、多くの学生がそれまでの学修過程で獲得しているはずの知識を覚えていないのである。より正確には、その知識や情報について聞いた「覚え」はある、という程度でとどまっているということである。

 その「覚え」を呼び起こすにも、特定の尋ね方をしなければならない。たとえば、「1914年から始まった大きな戦争は何か」と問えば「第一次世界大戦」というワードを引き出すことができるが、航空工学の発展、資本主義経済の好況・恐慌・不況のサイクル、ナチズムなどといった、別の事象の文脈において問うた際、これをキーワードとして引き出せる学生はほとんどいない。学生らのなかで、蓄積された知識や情報は互いに連関することなく、混沌とした状態でストックされているだけのようだ。

 加えて、自分の進路に関係する「教科」の情報以外は関心をもたずとも良い、といった風潮がある。ある学生(国立大、男子)はナポレオンを知らず、「私は理系で、高校で世界史を選択しなかったのでわかりませんでした」と弁明した。また、別の学生(私立大、女子)は、第二次世界大戦の時期を「18世紀ごろ」と言った。正解とも不正解とも言わず、そのように考えた理由をよくよく尋ねてみると、とにかく何か答えねばという一心で、「これは歴史で習ったこと、つまり昔のことである。昔といえば20世紀より前だろう」となったということであるようだ。程度の差はあれ、多くの学生において知識はこのように、「教科」という学校教育の便宜的枠組みによって仕分けされており、加えてひどく大雑把な認識のまま記憶のなかに埋もれている。

進級・卒業そのものを目的とする不毛な苦行

 さらに筆者を困惑させるのは、彼らが「正解」を「即答」することに対する一種の強迫観念のようなものを示すことである。記憶のストックから適切と判断するものを選び取り、それらを論理的に組み立てて正解へ辿り着くという過程をすっ飛ばし、いきなり結論を導こうとする傾向が非常に強い。明確な結論が出ない性質の問いには、教師が想定しているであろう「正解」を勝手に忖度し、その場しのぎの答えで済ませようとする。あるいは、(先に挙げたケースがまさにその典型であるが)とにかく「それっぽい」情報を記憶のストックから引っ張り出し、部分的にでも当たればラッキーとばかりに一か八かの賭けを試みる。

 知識を記憶から1つ1つ引き出してやり、おのおの根拠をもって思考を進めさせてみたある学生(私立大、女子)は、抗議の眼差しを筆者に向けながら途中で泣き出してしまった。また別の学生(国立大、男子)は、作業中、助言をしながら回っていた筆者が自分の席の前に来ると、途端にブルブルと全身を震わせ始めた(「正解」は1つではない、今の自分なりの答えが出るまで時間をかけるが良いと言い聞かせると、この学生は安心したのか、ようやく話や作業ができるようになった)。

(つづく)

(1)
(3)

関連記事