2024年04月19日( 金 )

さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(3)

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ライター 黒川 晶

「怒り」はどこへ

 ところが、前回に述べた焼け野原とは異なり、今回は人々の様子が明らかにおかしい。 

 前回、日本国民が敗戦の「茫然自失」から我に返り、その原動力をなしたものは、まずは「屈辱」感であった。外国軍に国土を占領されること自体ばかりではなく、国の富を外国に蚕食されるがままになるという状況に対してである。日本は賠償として国家予算の3分の1にのぼる進駐軍経費を負担した。米軍関係者が邸宅や専用のゴルフ場を建設する、贅沢品を購入するなど快適な暮らしを送るかたわら、国民は飢えた。子どもたちは占領者に群がってチョコレートをねだり、若い女性はからだを差し出した。

 しかし、それにもまして彼らに力を与えたのは、国のリーダーたちに対する「怒り」ではなかったか。天皇のもとの平等な「臣民」として、苦難を、死さえもともにしようと説きながら、彼らは占領軍の到来を前に脱兎のごとく逃げ出した。それも、国民が供出した物資を掠め取って。かくなるダブルスタンダードを目撃して人々は「アンフェア」を憎み、そうしたものの、ない社会の到来を真摯に望んだのである。彼らが「鬼畜米英」から一転、「マッカーサー元帥万歳」を唱和し、国の富を差し出す屈辱に耐えたのも、占領者の掲げる「民主主義」が日本から「アンフェア」を駆逐してくれるものに映じたためだ。

 顧みれば、明治維新のときもそうだった。藩士らが倒幕に立ち上がったのは、黒船来航で列強の圧倒的な軍事力・経済力を見せつけられ、日本もアヘン戦争後の清国と同じ状況に陥ること――植民地化――に危機感を覚えたがゆえである。また、地方藩主から被差別部落民に至るまで、多くの人々が身分を超えて彼らに合流し、明治政府発足後は(榎本武揚のような)最後まで抵抗した旧幕府の能吏らまでもが新しい国づくりに協力したのも、身分制や不平等条約といった「アンフェア」と、その理不尽への怒りを共有したためだった。

 では、現代の日本人はどうか。国際的競争力の低下とともに企業や国内不動産の外資への売却が進んでいる。このままでは製品のみならず労働力も安く買い叩かれることになると、警鐘が鳴らされて久しい。また、近年は「モリ・カケ・サクラ」に代表されるようなリーダーたちのあまりに多くの「ダブルスタンダード」を目撃し、「アンフェア」を痛感させられてきた。にもかかわらず、「刷新」へ向けた下からの大きなうねりはいまだ起こらない。それどころか、もてる者ももたざる者も、多くの人がルーティン化した日常に黙々と身を委ねている。より良い社会どころか、より豊かな暮らし、さらには自律した一個人として生きることさえ、まるで他人事であるかのように…… 。

 社会政策学者の藤山浩氏が著書『日本はどこで間違えたのか』(KAWADE夢新書)のなかで論じているように、また、我々もここまで俯瞰してきたように、資本主義国・日本は「大規模・集中・グローバル」の道程を二度歩み、二度失敗した。しかし、二度目すなわち今回の「大規模・集中・グローバル」においては、単なる失敗にとどまらず、前回とは異なる何か、人間の自然な感情を抑圧・破壊するような何かが作用してきた気配がある。それは、日本社会が米国を範として90年代後半から取り込んだ、新自由主義の思想であるというのが、筆者の考えである。

(つづく)

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