2024年04月20日( 土 )

工業都市からスーパーシティへ、九州2位・北九州市の栄枯盛衰(1)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ
左から北九州市役所、小倉城、リバーウォーク北九州
左から北九州市役所、小倉城、リバーウォーク北九州

街道の起点として賑わう交通の要衝・小倉城下町

 九州および福岡県の最北端に位置し、関門海峡を臨んで「九州の玄関口」として栄えてきた歴史をもつ北九州市。1963年2月に五市(門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市)が対等合併して生まれた同市は、同年4月に県庁所在地である福岡市に先んじて九州で初めての政令指定都市となり、九州最大の人口を擁するなど、かつては名実ともに九州一の都市であった。だがその後、72年4月に政令市となった福岡市の人口が79年に北九州市を抜くと、以降、その差は縮まることなく開いていくばかり。市の人口も79年の106万8,415人をピークに減少局面となり、2005年には99万3,525人とついに100万人を割り込んだ。そして現在も年間約5,000人ずつ減り続けている。

 とはいえ、いまだ90万人超の人口(93万5,084人/20年9月1日現在の推計値)を抱え、製造業を中心とした多くの企業が存在するなど、九州2位の都市としての存在感やポテンシャルは健在だ。同市はこれまでどのような歴史をたどり、そしてこれから、どのように変貌を遂げていくのだろうか――。

  

 安土桃山から江戸期にかけての北九州市は、主に現在の小倉北区が小倉藩・細川家および小笠原家の統治下で、小倉城の城下町として賑わっていたようだ。

小倉の中心部を流れる紫川
小倉の中心部を流れる紫川

 とくに紫川に架かる「常盤橋」が、鎖国体制を敷いていた江戸期の日本のなかで、唯一外国との文化交流や通商の窓口となっていた長崎に通じる街道「長崎街道」の起点となっていたことで、長崎街道を通って小倉にも西洋の文化や新しい技術などがもたらされた。現在の小倉駅南側の京町や、西小倉駅やリバーウォーク北九州などがある室町には宿屋が集まり、当時の小倉藩の特産品であった小倉織などを取り扱う商店なども軒を連ねていたようだ。また、現在の北九州市エリア内には、長崎街道の25カ所の宿場町のなかでとくに大きな「筑前六宿」のうちの黒崎宿(現・八幡西区黒崎)と木屋瀬宿(現・八幡西区木屋瀬)の2つの宿があり、それぞれ大変な賑わいを見せていたとされている。なお、常盤橋は現在、北九州市の紫川マイタウン・マイリバー整備事業の一環で1995年3月に架け替えられたことで、江戸期と同じく木製の橋となり、長崎街道が通っていた往時の面影を偲ばせている。

小倉駅
小倉駅

 さらに、小倉藩の立地そのものが九州と本州とを結ぶ九州の玄関口だったことで、豊前国・中津藩とを結ぶ中津街道や、筑後国・久留米藩とを結ぶ秋月街道、肥前国・唐津藩とを結ぶ唐津街道、門司・大里宿へ通じる門司往還などの起点ともなっており、「九州のすべての道は小倉に通じる」とまでいわれていたという。小倉の城下町では、城を中心とした周囲に家来の武士らが住み、さらにその周りに町人街が形成。魚の荷揚市場があった「魚町」や、鍛冶屋が多く住んでいた「鍛冶町」、馬で荷物を運搬する輸送業者が多くいた「馬借町」、ほかに「船頭町」や「米町」などの職業ごとに分けられた当時の町名は、今なお小倉の街中の地名として使われている。

 なお、小倉城を中心とした城下町として繁栄した江戸期の小倉藩だったが、そのシンボルである小倉城は1837年に失火によって天守閣が焼失。現在の天守閣は、1959年にRC造で再建されたレプリカであり、城の見栄えを重視して大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などが追加されたことで、史実にある本来の姿とは大きく異なる外観をしている。

(つづく)

【坂田 憲治】

(2)

月刊誌 I・Bまちづくりに記事を書きませんか?

福岡のまちに関すること、再開発に関すること、建設・不動産業界に関することなどをテーマにオリジナル記事を執筆いただける方を募集しております。

記事の内容は、インタビュー、エリア紹介、業界の課題、統計情報の分析などです。詳しくは掲載実績をご参照ください。

企画から取材、写真撮影、執筆までできる方を募集しております。また、こちらから内容をオーダーすることもございます。報酬は1記事1万円程度から。現在、業界に身を置いている方や趣味で再開発に興味がある方なども大歓迎です。

ご応募いただける場合は、こちらまで。その際、あらかじめ執筆した記事を添付いただけるとスムーズです。不明点ございましたらお気軽にお問い合わせください。(返信にお時間いただく可能性がございます)

関連記事