2024年04月19日( 金 )

「創業家の乱」――出光興産と昭和シェルの合併に反対した創業家の狙い?(前)

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 今年の株主総会は「創業家の乱」の当たり年である。(株)セブン&アイ・ホールディングスでは、「カリスマ経営者」の鈴木敏文氏(会長、83)が子会社の(株)セブン-イレブン・ジャパンの井阪隆一社長の退任を迫ったが、創業者の伊藤雅俊氏(92)が反対。逆に、鈴木氏が退任に追い込まれた。セコム(株)では、創業者で取締役最高顧問の飯田亮氏(83)の意向を受けて、前田修司会長と伊藤博社長を解職した。出光興産(株)の創業家である名誉会長の出光昭介氏(88)は、昭和シェル石油との合併を進める月岡隆社長ら経営陣に反対の刃を突きつけた。

出光創業家の反対で月岡社長の賛成率は52.3%

 月岡隆社長52.3%、松本佳久副社長58.8%、関大輔副社長58.8%、関洋副社長58.8%――。出光興産は6月28日、東京・港区六本木のグランドハイアット東京で定時株主総会を開いたが、月岡社長ら取締役の再任案はわずかの差で可決されていたことがわかった。事実上の「不信任」である。

 創業家は17年4月に予定する出光と昭和シェル石油の合併に反対すると表明。合併を推進する取締役10人の再任に反対票を投じたからだ。

 創業家側は資産管理会社の日章興産や、出光文化福祉財団や出光美術館を通じて、議決権の33.92%を持つとしている。経営陣の再任には、創業家以外にも一般株主も賛成しなかった。経営陣はかろうじて再任されたが、11月に開催を予定している臨時株主総会で、合併承認に必要な議決権の3分2以上の賛成を得るのが難しくなった。

創業家は出光と昭和シェルの合併に反対

office2 出光興産は故出光佐三氏が創業し、長男の昭介氏も社長を務めるなど、かつては創業家が経営していた。現在、創業家出身の取締役は1人もいない。

 昭介氏は代理人の浜田卓二郎弁護士を通して文書を公表。昭和シェルとの合併に反対する理由に、国際石油資本(石油メジャー)に対抗してきた出光とメジャー系の昭和シェルでは企業体質が異なることのほかに、サウジアラビアの影響力が強まることへの懸念を示した。

 出光は石油メジャーの英蘭系のロイヤル・ダッチ・シェルから昭和シェル株33.3%を取得する契約結んでいる。昭和シェルの第2位の株主は、世界最大の石油輸出国サウジアラビアの国営企業サウジアラムコで、14.96%を保有する。

 「サウジとイランの対立激化の渦中に、サウジアラムコの系列の企業となることは適切でない」と合併反対の理由を指摘した。サウジは今年1月、ペルシャ湾を挟んで対峙するイランと断交した。サウジ・イランの対立は中東の混迷を一層、複雑なものにしている。

 出光昭介氏が昭和シェルとの合併に反対した本当の理由は、サウジアラムコの系列になることを危惧したことにある。創業家はイランには好意的だ。イランは出光興産の原点だからである。

英国艦隊の封鎖をかいくぐり、イランから石油輸入を断行

 「航路変更、アバダンに向かわれたし」
 1953年4月3日、インド洋のコロンボ沖を航行中の出光興産の日章丸に、本社から1本の暗号電報が届いた。産油国イランのアバダン港へ、石油積み出しに行けという指令である。船長は乗組員を集め、あらかじめ預かっていた社長、出光佐三氏の檄文を読み上げた。

 「いまや日章丸は最も意義ある尊き第三の矢として弦を離れたのである。…ここにわが国は初めて世界大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである。この第三の矢は、敵の心胆を寒からしめ、諸君の労苦を慰するに十分であることを信じるものである」

 船長が大声で読み終えると、それまで本当の目的地を知らされなかった乗組員は奮い立った。一斉に声が上がる。「日章丸万歳! 出光興産万歳! 日本万歳!」

 出光佐三氏の伝記に必ず出てくる有名な場面である。

 戦後の日本の石油産業は米英を主軸にした国際石油資本、いわゆるメジャーの支配下にあった。この国際的な石油カルテルに敢然と立ち向かったのが、出光佐三氏だった。そのため、出光興産は石油カルテルから排除され、孤立無援。四面楚歌のなか、佐三氏が考えた「第三の矢」。それがイラン石油の輸入だ。

 当時、イランはモサデク首相のもと、石油国有化政策を推進、英メジャー、アングロ・イラニアン石油(現・BP)の接収を進めていた。英国は艦隊を中東に派遣し、イランから石油を積み出そうとするタンカーがあれば、拿捕も辞さない強攻策を取った。

 佐三氏は極秘にイランと輸入協定を結ぶ。そこで仕掛けた奇襲が、アバダン行きであった。日章丸は隠密航海をつづけ、アバダンに入港、石油を満載する。帰路はシンガポールに基地を置く英国海軍の監視を考えてマラッカ海峡を避けた。水深が浅くて危険なジャワ海を通るなど苦闘の航海を乗り切り、イラン石油の輸入に成功した。

 日本が連合国の統治下を離れ、独立国として主権を取り戻してからわずか1年後。石油メジャーの鼻をあかした、胸のすくような快挙に国民は熱狂した。

 出光創業家はイランに対する思い入れが強い。佐三氏の長男、昭介氏はイランの首都テヘランを訪れた際、「誰もが出光と日章丸のことも覚えていてくれた」と感激を語っている。

(つづく)

 
(後)

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