2024年04月20日( 土 )

【唐津街道中膝栗毛/後編】景観保存と開発の狭間で揺れ動く箱崎~小倉の旧宿場町(前)

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唐津街道

箱崎(福岡市東区)

筥崎宮の門前町として発展した 福岡・博多の「東の玄関口」

左:JR箱崎駅 / 右:意外と交通量の多い街道筋
左:JR箱崎駅 / 右:意外と交通量の多い街道筋
網屋天神の一角にある御茶屋跡の碑
網屋天神の一角にある御茶屋跡の碑

 箱崎宿は、現在の箱崎エリア内の県道21号福岡直方線沿いに形成されていたとされる宿場町である。博多からの街道筋は、石堂橋をわたった後、現在の福岡県庁と九州大学医学部の間を通り、筥崎宮の参道と交差するかたちで一ノ鳥居の前を通過。その後、勝楽寺を過ぎた九大正門入口交差点で東方向に曲がり、東区の松島や多の津方面に延びている。

 同地は元々、923(延長元)年に創建された「筥崎宮」の門前町として発展してきたほか、日宋貿易では一拠点となって唐房(今でいうチャイナタウン)が形成されていたともされる場所。そして唐津街道においては、福岡・博多の東の玄関口的な場所でもあったという。そのため、福岡藩主が参勤のために江戸へ向かう際は、福岡城から箱崎宿までは威厳を示すために正装での大名行列を行い、箱崎宿で旅装束に着替えてから旅の安全祈願のために筥崎宮に参拝し、次の青柳宿を目指したとされている。一方で、江戸からの帰国の際は、長い旅を経て箱崎宿までたどり着き、行きとは逆に軽装から正装に着替えたという。またその際に、家老や主な家臣、さらにはお目見えを許された町民などが箱崎宿に集まり、藩主の帰国を出迎えたとされる。なお、余談だが、1922(大正11)年のクリスマスには、当時ノーベル賞の受賞が決まったばかりのアインシュタイン博士が、九州大学工学部(当時は九州帝国大學工學部)のキャンパスに向かうために、この街道筋を通っていったという逸話も残っている。

 街道筋から少し西側に入った網屋天神の一角には現在も「御茶屋跡」の石碑が建っているが、ここに藩主が宿泊・休憩する御茶屋があったとされている。この御茶屋では、1851(嘉永4)年に薩摩藩主・島津斉彬と福岡藩主・黒田長溥が会見したという記録もある。

左:街道筋には町屋風の建物も残る / 右:筥崎宮
左:街道筋には町屋風の建物も残る / 右:筥崎宮

 かつての宿場町の面影は、前出の筥崎宮をはじめとした、勝楽寺や網屋天神、玉取恵比須神社などの古い寺社仏閣のほか、街道筋に残る古い町屋風の建物、国登録有形文化財「箱嶋家住宅」などにも見ることができる。また、佐賀銀行箱崎支店の道路を挟んで向かいの建物の脇には、唐津街道の名残を伝える「唐津街道旧郡境石」が残っているが、これはかつての表粕屋郡と那珂郡との郡境を示す石碑。現在は箱崎校区と馬出校区の境界になっている。

 現在の箱崎宿一帯は、旧街道筋である県道21号福岡直方線沿いを中心に小規模な商店が軒を連ねているほか、JR箱崎駅と福岡市地下鉄・箱崎宮前駅に挟まれている利便性の良い立地から、単身者向けマンションなどが林立。門前町としての古い街並みと、都市部での開発進行とがせめぎ合っているような様子がうかがえる。福岡直方線は、国道3号や妙見通り(県道550号浜新建堅粕線)などの主要道路に対する抜け道的な道路として、道路幅の割にはやや交通量が多い印象があるが、エリア全体としては落ち着いた雰囲気の下町といった風情がある。周辺でのマンション開発の動きは、(株)アライアンス(福岡市中央区)による「エイリックスタイル 箱崎駅南フォリア」(24戸、22年11月竣工予定)など。

 なお、エリアのすぐ北側エリア一帯では、約50haにおよぶ九大・箱崎キャンパス跡地での再開発が控えている。現在はコロナ禍で事業者公募などが延期され、再開発の動きは事実上ストップしている状態ではあるが、将来的に再開発が進めば、箱崎エリア一帯の様相も変化してくることだろう。

【坂田 憲治】

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