2024年04月24日( 水 )

リッツ・カールトン開業でどう変わる?雑多さ魅力・若者のまち「福岡・大名」(中)

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ファッションのまちらしく、多くの個性的なアパレル店が軒を連ねる

個性的な小規模店舗が集積、そして「若者のまち」へ

 太平洋戦争末期、1945年6月19日から20日にかけての深夜に福岡のまちを襲った「福岡大空襲」によって、天神や博多だけでなく、大名エリアの被害もかなり甚大だったとされる。前述のように大名小学校本校舎などの一部を除けば、大名エリア一帯は焼野原と化し、戦後に国が制定した特別都市計画法に基づく「戦災復興土地区画整理事業」により、徐々に市街地の復興がなされていった。ただしその際も、江戸期より続いてきた町割などは引き継がれたようだ。また63年には、町名町界整理により、かつての「薬院町」「薬院東川端」「薬院西川端」「東警固町」「東小姓町」「西小姓町」「林毛町」「鉄砲町」「養巴町」「紺屋町」「雁林町」が大名1丁目に、「万町」「雁林町」「土手町」「大名町」「上名島町」「呉服町」が大名2丁目へとそれぞれ統合。町名のうえでも、現在の大名エリアの基盤が整った。

 なお、高度経済成長期にかけて、隣接する天神エリアが交通利便性の高さも相まって、福岡市随一の繁華街および商業エリアとして華やかに発展していく傍ら、大名エリアはその陰に隠れて繁華街裏の静かな住宅地およびビジネス街として、ややひっそりとした発展を遂げていったようだ。

 その大名エリアに大きな変化が訪れたのは、80年代中ごろから90年代初頭にかけての、ちょうどバブル期真っ盛りのころだ。当時、福岡一の繁華街としての地位を謳歌していた天神エリアの地価上昇にともない、隣接する大名エリアにも地価上昇や都市化の波が押し寄せた。すると、旧来から住んでいた人々が大名を去り、小規模な商店などでは店を閉めるところも出現。そこに入ってきたのが、小規模なファッション店などだった。折しも世間には古着ブームが到来。若い店主らが、天神などに比べて家賃が安かった大名のビルの一角やアパートの1室を使って個性的なファッション店や古着屋、セレクトショップなどを出店するケースが増え、それらの店を目当てに次第にファッションへの感度の高い若者が集まるようになった。それにともない、若者向けの飲食店やカフェ、居酒屋やバー、雑貨屋なども増加。やがて大名には若者に人気のコンテンツが集積し、それらをガイドブックや観光パンフレット、インターネットサイトがこぞって取り上げたことで、福岡市内だけでなく、県内、さらには九州中から若者らが集まる「若者のまち」となっていった。

ファッションのまちらしく、多くの個性的なアパレル店が軒を連ねる
ファッションのまちらしく、多くの個性的なアパレル店が軒を連ねる

 なお、その後もリーマン・ショックごろには大名エリアの家賃高騰による閉店増加および新規出店の減少などで空き店舗が増えたり、逆にインバウンド時には外国人旅行者で活況を呈したりと、時代の変化や景気動向の波による影響を受けながらも、依然として大名は若者のまちとして認知されつつ、今に至っている。

【坂田 憲治】

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