2024年04月18日( 木 )

筑紫女学園新理事長(?)長谷川裕一氏解任の勧め(8)~9億円捨てた人、回収に奔走した人

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 筑紫女学園の関係者の皆様方!!本シリーズ(5)で福岡空港から新航空会社の飛行機が飛び立ち続けるはずであったことを報告しましたね。ところが力およばずして宮崎に乗り換えられました。福岡ではパンアジア航空(株)として設立され、期待されたのです。もちろん、長谷川氏も先頭に立って資本金出資の要請に動きました。ですが危なくなったとみるや同氏は自分が出資した資金の回収に走ったのです。ここで長谷川氏の経済界での信用は失墜したと私は断言します。今回が最大のハイライトです。

9億円を捨てた郷土のヒーロー

2000年6~7月にかけてI・B誌面で連載したものの一部 ※クリックで拡大 2000年6~7月にかけてI・B誌面で連載したものの一部
※クリックで拡大

 1998年から航空業界において第三勢力としてスカイマークエアラインズ、北海道国際航空(エア・ドゥ)が就航し、パンアジア航空が三番手として飛び立つ準備がなされていました。結果、すべて3社とも楽な道を歩くことができず実質的な倒産から再生の道を余儀なくされたのです。2社独占の壁を打ち破るのは至難の業でした。新事業に挑戦して挫折、悔しい涙を流す人たちもおられますが、9億円の金を捨てても平然としている勇者もいます。
 「福岡で無理、宮崎へ」という本社移転の原動力になったのは宮崎の地元の熱烈歓迎でありました。熱意だけでは問題解決になりません。資金提供が肝心です。地元財界では雲海酒造とともに米良電機産業が熱心でありました。この会社は電材を中心に商売を展開しており地元の中核企業であります。同社の米良充典代表は若いときから日本青年会議所(JC)の活動に没頭していました。だから社会貢献には非常に強い関心を持っていたのです。こういう背景があり「故郷・宮崎へ航空会社を誘致しよう」という強い使命感に燃えたのでしょう(現在は宮崎市商工会議所の会頭職にある)。
 新会社へ米良電機産業が出資となれば地元の金融機関も「廻れ右」となります。2000年に本社を宮崎に移し、02年8月から宮崎=東京が就航することになりました。しかし、関係者の熱意が、いかに燃え上がろうとも経営の厳しさを克服することは容易でありません。運航開始からわずか2年しか経過していない04年6月に産業再生機構の下で再生することになりました。当然、減資を強行されます。大口株主は株を放棄しなければなりません。米良電機産業は個人も含めて9億円(20億円という説もある)の損失を被ったようです。毎期、それを平然と償却してきたと聞きます。わが故郷にこれだけの豪傑がいるとは嬉しい限りであります。
 現在、『スカイネットアジア航空』から『ソラシドエア』へ商号変更して就航中です。宮崎ばかりでなく九州各県庁所在地から東京へ飛んでいます。全日空の傘下になったこともあり業績は好調で、今期初めて配当を行いました。地元・宮崎の方々に愛され、利用されているのは素晴らしいことです。米良電器産業・米良充典氏とも依然として株主として熱烈支援を継続しています。何と清々しい英雄的な快挙でしょう。こういう【有言実行・私欲無・無心の人格者】を学園の理事長にスカウトすべきと提案します。

躍起になって回収に走った・長谷川裕一氏

 米良電機産業・米良充典氏の英雄的行動を紹介しましたが、長谷川氏はどうしていたのでしょうか?ちょうど、シリーズ(7)で添付した取材のなかのことです。仏壇・はせがわの取材をしていたときであります。「長谷川さんがパンアジア航空の株を売り逃げしたらしい」という情報が飛び込んできました。「えー、そこまでやるの!!」と私は吃驚したのです。調べるほどに事実であることを確認しました。「なんという軽率なことをやるのであろうか」と呆れ果てたのです(詳細は添付資料を参照)。
アジアビジネスセンターの取締役をしている長谷川氏の一番の信頼関係にある社長にコメントを求めました。「たしかに会社は厳しいかもしれないが、6,000万円ならまだしも数百万円足らずの金を回収するなんて恥ずかしい限りだ。本人があらゆる関係者に出資を誘ったはずだがな。信用問題になるよ、これは」と、悔しがっていたのが印象的でありました。この事実を聞いてどう考えられますか?

筑紫女学園の関係者の皆様方!!

 最大の罵倒をされたのはゼンリンの大迫忍オーナーでありました(若くして亡くなられたのは本当に惜しい)。「長谷川氏はなんだかんだと頼みの電話をしてくる。いろいろな出資の打診をしてきたが、自分が北九州の窓口役にさせられた。まさしく今回の抜けがけ行為は裏切りそのものである」。この時点で「長谷川氏は経済界での信用を失った」と断じてよいでしょう。米良氏と比較しても覚悟というものがまるでありません。「他人様に出資を要請した行為に責任感を抱かない」という物忘れはお惚けなのでしょうか!!
 2000年という年は長谷川氏にとって「最悪の年」と規定しましたが、本人にはその意識は皆無と思います。このシリーズ(8)でしっかり認識していただきたいものです。

(つづく)

 
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