2024年04月20日( 土 )

ユニクロ柳井氏、日本電産永守氏の「引き際」(後)

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 リーダーは退き際を潔くしなければならない。「引き際の美学」として唱えられるフレーズだが、実行はなかなか難しい。成功したリーダーほど至難の業だ。優れた実業家が、この1点で、晩節を汚すどころか、若き日の高名をまったく無にしまうことが往々にある。オーナー経営者の引き際について考えてみよう。

ホンダの創業者、本田宗一郎氏の鮮やかな引退

 本田技研工業(株)(ホンダ)の創業者、本田宗一郎氏は、鮮やかな引退で名をとどめる。
本田氏は戦後、ホンダを設立したとき、藤澤武夫氏と出会い、イノベーター(起業家)と有能な経営者のコンビができた。本田氏はやりたい技術の分野のことだけをやり、経理や販売など不得意の分野はパートナーの藤澤氏に任せた。
 バタバタと呼ばれる自転車用補助エンジンからスタートした本田氏は、たびたび常識破りの挑戦を試みて、それを成功させた。マン島のT・Tレースに出場し、通産省の意向に逆らって四輪車の生産に進出し、さらにF1レースに参戦。こうした挑戦をいずれも優勝と成功で飾っている。この間、低公害型エンジンCVCCを開発して、ホンダの車を世界の車に押し上げた。
 戦後の起業家のスーパースターだった本田氏が、突然、引退して産業界を驚かせた。
 1960年代後半、空冷エンジンにこだわる本田氏に対して、空冷エンジンの限界を見極め、水冷エンジンの開発を進めるべきだと考える若手技術者たちが反発。本田氏の意向を汲んで空冷エンジンを搭載した小型自動車が売れなかった。
 これが転機になる。技術者たちは、藤澤氏にすがって本田氏を説得してもらった。「あなたは社長としてホンダに残りますか。それとも技術者として残りますか」と迫ったという。本田氏は、自身の引き際を考えていたのだろう。
 1973年、本田氏は66歳で社長を退任。藤澤武夫副社長とともに取締役最高顧問となる。いざ退くとなったときには、鮮やかに、さっぱり引く。その後、経営に口をはさむことはなかった。本田氏の「引き際の美学」として語り継がれている。
 本田氏が去った後、ホンダは普通の会社になった。ソフトバンク、ファーストリ、日本電産も、カリスマ起業家が退いた後は、普通の会社になるだろう。

 
(前)

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