2024年03月29日( 金 )

あれから5年~東日本大震災

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 きょう2016年3月11日、日本は東日本大震災から5年目を迎えた。あの頃福岡市では九州新幹線全線開通記念イベントを翌日に控え、街中が華やいでいた。博多駅周辺ではイベントに華を添えるブルーインパルスの事前飛行が行われ、5機のブルーインパルスが白煙をなびかせながら飛んできた。青空に華麗な線が描かれたその数時間後、東日本で未曽有の大地震が起こるとは、誰が想像しただろう。

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 海外の人々は、「日本人は暴動も起こさず静かに避難所で励まし合っている」と感動し、国内でも「和」と「絆」という言葉が尊ばれるようになった。

 地震発生後1年以上経って現地を訪れたとき、今なお瓦礫の山が並ぶ岩手県陸前高田市気仙町の光景に愕然とした。斜めに傾いたままの小学校、えぐり取られた役場、積み上げられた廃車。崩壊しかかった菓子工場の壁面に「ここまで津波が迫った」という後がくっきりと残っていた。横たわる被害者の亡骸を、生き残った人たちはどのような想いで見ただろう。川を逆流する濁水に高台にある工場が飲まれた。その様子をビデオ撮影したという社長がデータを入れたUSBを「九州に持って帰って記憶に残して」と手の平に乗せてくれた。動画をNetIBに掲載し、増えていくアクセス数を数えながら、東日本の人たちの思いを少しでも伝えることができただろうかと考えた。

 思い出すことは多いのだが、九州で3月11日を迎えた人間としては、何を言っても現地でその被害に直面した人たち以上のことは言えまい。関東方面の人から「あの日、日本は西と東で明暗が大きく分かれた」と言われて、返す言葉がなかった。ただひとつ言えるのは、だからこそ東北を訪ねたということ。訪ねて、被災した人々に会って震災の爪痕を記憶に刻み込んだということ。きょうは様々な「3月11日」が多くの場所で語られ、考えられていることだろう。その1つひとつが、今の、そしてこれからの日本をつくっていく。

【黒岩 理恵子】

 

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